テレジン通信:2012年12月

SLAVIT VANOCE!

ホームページに新しい情報を書き加えなければ……と思いながら、いつの間にか秋を通り過ぎ、もう今年もわずかになってしまいました。見てくださっている方には、本当に申し訳ないと思っています。報告をかねて、クリスマスのご挨拶を送ります。


もう来年の話をしても、笑う鬼はいないでしょう。来年はホームページの充実にがんばります。というのは、30年もの間続けてきた裁判所の仕事(調停委員・参与員)が、今年いっぱいで定年で終わるのです。

これまでいくつもの新聞、雑誌、本に書き、講演会で話したりしてきたことを、もう一度きちんと整理して行こうと思っています。テレジン収容所から生きて帰った方たちから聞いたお話は、本当に貴重なものばかり。話してくださった方の中には、その後、亡くなった方もいます。お元気で外国へ出かけていくディタ・クラウスさんのような方もいますが、それでも話しを聞く機会は減っていくはずです。そして、何よりも、折角話していただいたことを、私自身がすべて伝えきれないでいることは申し訳ないこと、もったいないことだと、かなり前から心を痛めていました。

来年から、そんな伝えておきたいことを書いて行きます。たくさんの方に読んでいただきたいと願っています。

プラハ旧市街のクリスマス・ツリー
プラハ旧市街のクリスマス・ツリー(画像をクリックすると拡大でご覧いただけます)

今日はクリスマス・イブです。昨日から天気予報では「クリスマス寒波」とか「ホワイト・クリスマス」という言葉を繰り返していましたが、本当に今日は寒い日になりました。北海道や北日本、日本海側では大変な積雪になっているようですね。

テレジンの子どもたちの絵と一緒に訪れた札幌・旭川・士別・函館・新潟・上越・金沢・大野・鳥取・・・あちらこちらの街を思い出しています。暖かいお部屋でクリスマスのお料理を作っている方もいれば、積もった雪を踏んでお正月のお買い物に出かけていく方、雪かきで汗をかいている方もいらっしゃるでしょう。

チェコでは「クリスマスに雪が降れば豊作」という諺があるのだそうです。今年は、大旱魃に見舞われた国もあれば、洪水の被害の大きかった国もあり、雪が多いとつい積雪被害を考えてしまいますが、この雪が大地に恵をもたらすものになるのだと思います。

私の住む関東地方は、青空が美しくひろがっています。でも、寒い! 北風がとても冷たいのです。空気が乾いていて、あの夏の湿度の高さを考えると、日本の季節の変化はすごいのだなとしみじみ思います。

1990年、91年……何回か、プラハでクリスマスを過ごしたことがあります。

「プラハの冬は寒いです、でも、雪景色はとてもキレイ! 寒さを我慢して、ぜひ雪景色を楽しんでください」

と言ったのは、1990年当時日本のチェコ大使館にいらっしゃったヤン・レボラさんでした。

 

手づくりの品物を売るクリスマス市
手づくりの品物を売るクリスマス市(写真をクリックすると拡大でご覧いただけます)

クリスマスの思いでもいくつもあります。

ヘルガ・ホシュコヴァーさん、ラーヤ・ザドニコヴァーさんとはじめてお会いしたのは、12月23日(1990年)でした。改革から一年たっていたとはいえ、まだ何となく落ち着かない雰囲気があって、街を歩いていても戸惑うことが多かったのを覚えています。少しずつ増えていた観光客とチェコ(あの頃はまだチェコスロバキアでした!)人との隔たりのようなものもあり、英語はほとんど通じないし、お店に並ぶ品物は増えつつあっても、まだ店員さんの対応が不親切だったり(社会主義の時代には、笑顔を見ることが少なかったのです!)...

 

プラハのクリスマス・ツリー前にて野村路子
プラハのクリスマス・ツリー前にて野村路子(写真をクリックすると拡大でご覧いただけます)

それなのに、旧市街のクリスマス市に行ったら、なんと、人のよさそうな太ったおばさんが身振り手振りで話しかけてきたり、手づくりらしいオーナメントを売るおばあさんが「メリー・クリスマス!」と言ってプレゼントをくれたり、ホットワインの屋台のおじさんが笑顔で、乾杯をしてくれたり…...ああ、この国は今、大きく変わりつつあるのだと思ったものでした。

ヘルガさんは、その日、お孫さんとクリスマス・ツリーの飾り付けをしていました。その手を休めながら、いろいろお話をしてくれたのですが、

「私たちはユダヤ人だけど、あのころ、ユダヤ人のしるしの黄色い星をつけさせられた時だって、クリスマスを祝っていましたよ、周りのチェコ人と同じような生活をしていたのですよ」

と言ったのです。

「そう、私、あの時まで、自分がユダヤ人だと思っていなかったのよ」

と言ったのはラーヤさんでした。彼女の母親はチェコ人、父親がユダヤ人という、いわゆる「混血」だったのです。・・・・・

そういう話を、来年から少しずつ、このホームページに書いて行こうと思います。チェコのクリスマスといえば、鯉。あの街角の鯉売りの行列、レストランで食べた鯉のフライ、ケーキ屋さんで売っていた鯉の形のケーキ。懐かしく思い出しながら、皆さんにご挨拶。「いいクリスマスを!」

 

【コラム】テレジンの子どもたちとクリスマス 詳細を見る

 

2013年 新企画:朗読劇『フリードル先生とテレジンの子どもたち』

オフィス・サエ(露川冴さん主宰)は、「語り伝えなければならない事実を朗読で」というテーマで、ヒロシマや徴用で連れて来られた朝鮮人の話など、素晴らしい本を選んではユニークな朗読劇の形で上演を続けている会です。

以前、私の著書『テレジンの小さな画家たち』を上演してくださったこともあり、テレジンの事実、子どもたちのことにも心を寄せてくださっていました。

今回、新しい本の朗読を企画、すでに第一稿の台本ができ、若い俳優さんたちのリハーサルを重ねながら、台本の練り直しに入っています。来年の上演が楽しみです。

 

日本経済新聞「捨てられない本」野村路子(2012年12月1日掲載)

昨年、日経新聞文化部から依頼があって『交遊抄』に原稿を書かせて頂きました。新聞の読者が知っているような有名な人で、個人的なつき合いのエピソードを書くというコラムですので、テレジンとは直接に関係のない文なのですが、私としては、かなり嬉しい出来事でした。

日経新聞の、あの文化欄のページに書くのは、実に23年ぶり! 

1990年に、私は同じページに『収容所の幼き画家たち』という随想を書いているのです。1989年はじめて訪れた、まだ社会主義国のプラハで、あの子どもたちの絵と出会った私は、一年間ずっとテレジンのこと、子どもたちの絵のことが忘れられず、一年過ぎた90年に、在日チェコ大使館を訪ねて、「あの子どもたちの絵の展覧会を日本で開かせてください」とお願いしてしまったのでした。そんな突然の申し入れを受け止めてくださったヤン・レボラ書記官がすぐにプラハに打診し、ユダヤ博物館からは“快諾”のテレックス(メールのやりとりどころか、当時の博物館にはまだファクシミリもなかったのです!!)が来て、具体的に話が進み始めているのに……まだ資金の組織も何の準備もない私がどうしよと悩んでいたときでした。

 

思い出すことはいろいろあります。

その一年の間には、チェコスロバキアという国の体制が変わるという大事件がありました。長い間つづいていたソ連の抑圧をきらい、自由に語り、自由に行動できる、自分たちの国の独立を求める人々の姿が、毎日、テレビに映されました。そして、東欧諸国が次々と新しい国に生まれ変わって行ったのです。それまでの支配者の血が流された国もありました。でも、チェコは「Velvet Revolution (ビロード革命)」と呼ばれる、スムースに穏やかに、政権が変わり、国民の生活は、明るさや豊かさをとり戻しつつあったのです。その最大の現象は、ヨーロッパ各国からの観光客の激増でした。あの夏、それまで何でもなく予約できたホテルがとれない。旅行会社はもちろん、大使館や新聞社に頼み込んでも、飛行機だけは何とか確保したものの、ホテルがとれない……あんな経験は、あれが初めてでした。ロンドンに赴任中だった娘のおかげで最初の2泊だけ確保、2日目以降は、毎朝、かつての国営旅行社に並び(それはまだ社会主義国のまま)、2泊ずつホテルを替わるというすごい体験も楽しい貴重な思い出です。またまた話がながくなりました。ごめんなさい。

 

そんな苦労をして訪ねたプラハでは、ユダヤ博物館館長から「遠い日本の女性が、あの絵に心を寄せてくれたことに感謝する。ぜひ日本で展覧会を開いてください」と、何度も何度も握手をされました。でも……予想をはるかに超える必要経費を考え、果たして私の一人の力で実現できるのだろうかと悩み、迷いながら、私はプラハの街を歩いていたのでした。1989年のあの暗い雰囲気が夢のように思える、華やかに賑わう旧市街、カレル橋……そんな思いを書いた随想でした。

それが掲載され、読んでくださった多くの方から応援の手紙や電話があったのですが、その中の一人、当時の安田火災保険株式会社の後藤康夫社長からの協力申し出でがあって、『テレジン収容所の幼い画家たち展』は実現したのでした。

 

その同じ日経新聞文化欄に原稿を書く、あれから23年! あの後藤社長はもういらっしゃらない、そして、「私の町で開催しましょう」「うちの市でぜひ」「何かお手伝いをします」と寄せられたたくさんの新聞読者からの善意、誠意、大きな力で私を支え、励まし、応援してくださった方々、その中には、やはり今は亡き人になってしまった方も多いのです。そう思うと、今回の『交遊抄』小さな記事でしたが、私にとっては、感無量なことだったのです。

そこに書いた実相寺昭雄さんも、テレジンを応援してくれた一人でした……。

 

※23年前の全文は 著書「15000人のアンネ・フランク」 に載っています。

 

「捨てられない本」 野村路子

 「書棚の整理をしよう」。と友人の訃報を聞くたびに身辺整理を思いたつ。送られてくる同人雑誌、自費出版の本など、遺された者が処分に困るものは片づけておこうと思うのだ。書棚の奥から、少々いかがわしいタイトルの雑誌が出てきた。表紙には「性と官能・・・」という惹句と実相寺昭雄の名前が大きく印刷されている。
 テレビや映画のウルトラマン作品の監督として有名な大学時代の旧友。ある日、街中で偶然出会ったとき、彼が近くの書店に駆け込んで買ってきてくれたものだ。電車に乗って袋を開けて慌てた。周囲を見回し、袋ごとバッグに押し込んだ。
 「俺の小説、読んだのか」「もちろん、ちゃんと。夜中に読んで、朝、枕の下に隠しているの」。その後しばらくして、彼もふくめた仲間が集まったとき、話は盛り上がった。「ばか、それはやめろよ、外出先で突然死でもしたら、野村は欲求不満だったのかと言われるぞ」
 その日、学生時代は白皙の美少年と言われた実相寺さんのどす黒い顔色が気になったが、映画の話や、仲間の小説のことなどで談論風発。何十年にもわたる仲間だから悪口雑言、褒め言葉は少なく、笑って別れたのだったが、それから間もなく彼は亡くなった。 私の死後、娘が友人の遺作を見つけたらどう思うだろうと心配だが、今も捨てられずにいる。(のむら・みちこ=作家)