ホロコースト

戦争はいつも子どもたちを犠牲にします。第二次世界大戦…戦争という狂気の嵐が吹きあれていた時代、世界のあちこちからの国々で、なんの罪もない、どうして戦争が起こったかすら理解できない幼い子どもたちが、無残に殺されていったのです。どの子どもたちも、もっともっと生きたいと思っていたはずです。大きな夢をもっていたはずです。そんな子どもたちの夢や希望をうち砕き、焼きつくしてしまうのが戦争なのです。

 

アウシュヴィッツをはじめとする“収容所”で殺された子どもたちの数は150万人といわれています。子どもたちの怒り、悲しみ、夢、祈り、そして生きたいという叫び、生命のメッセージをうけとめてあげてください。 

 

“ホロコースト”とは何か ~幼い生命、無限の可能性を奪いとったもの~

“ホロコースト”という言葉のもともとの意味は、“焼いて神殿に供えられる犠牲”のことでした。第二次世界大戦後、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺を意味する言葉としてひろくつかわれるようになりました。

 

ホロコーストのはじまりは、最初はドイツ国内で、さらにナチス・ドイツが侵攻し、支配下においた国々での、ユダヤ人排斥、虐待、さまざまな剥奪というかたちではじまりました。ユダヤ人たちは、公職から追われ、店や病院を閉じさせられ、電車やバスに乗ることも買い物も禁じられ…自由に外をあるくことさえできなくなっていったのです。子どもたちは、学校へ行くことを禁じられ、遊園地やプールからもしめだされました。

 

戦争への足音 ナチスとヒットラーの台頭

アドルフ・ヒットラーがひきいるナチスが政権をにぎったのは、1933年1月のことでした。第一次世界大戦の敗戦による屈辱感、経済危機、インフレにくわえて物資不足で、国民の生活は困窮し、不満や怒り、将来への不安がいっぱいでした。そんな時に、ヒトラーは、ドイツの領土を 拡張して、世界で最大最強の国にしよう、ドイツ民族は世界でもっとも優秀で価値ある民族なのだと、得意の弁舌で繰り返し叫んだのです。その言葉のもつ魅力に、ドイツ国民は酔いしれ、ナチスは強力な組織になっていきました。

 

そんな野望の実現のために、いちばん邪魔になるのはユダヤ人の存在だと、ヒトラーは訴えました。当時ヨーロッパには1100万人以上のユダヤ人が住んでいましたが、それぞれの国に根を下ろして暮らす人々のなかには、政治、文化、経済など各方面 で力を持つ人も多くいたのです。「ユダヤ人がいたから戦争に負けたのだ。優秀で純粋なドイツ人の血統でドイツを強国にしよう!」…ユダヤ人を排除しながら、ナチス、ドイツは、領土拡張をめざして、オーストリア、ポーランド、チェコスロヴァキアへと踏み込み、1939年9月、第二次世界大戦の火ぶたがきられたのです。 

 

胸に黄色い “ダビデの星”

戦争がはじまって2ヶ月後の1939年11月23日、ナチスは、占領したポーランドに住むすべてのユダヤ人に、ユダヤ人であることがすぐ分かるように“しるし”をつけることを命令しました。「ユダヤ人は常に黄色い“ダビデ星”をつけねばならない。つけずに外出したら厳罰に処す」というのです。すでに1935年、ドイツでは「ニュールンベルク法」が公布されていました。“ドイツ人の血と名誉を保護するため”ドイツ人とユダヤ人の結婚を禁止し、ユダヤ人はドイツ公民になれないと名言したものですが、この法のなかで、“両親の片方でも、あるいは祖父母のうち一人でもユダヤ人であれば、その子、あるいは孫はユダヤ人である”と、ユダヤ人の定義がされていました。

 

どうして“しるし”をつけねばならなかったのか。それは、すでに実行されていたユダヤ人の排除をもっと強化して、町から追い出し、ゲットー(ユダヤ人だけを集めて生活させる区域)収容所へ送る作業を能率的に進めるための準備だったのです。

 

家を追われるユダヤ人

ドイツ軍の侵攻後まもなく、ポーランド国内にゲットーがつくられました。当初は、“ユダヤ人だけを集めて生活させる区域“と、いわれましたが、その後、占領下の国々に次々とつくられたゲットーもふくめ、そのほとんどは、最低の生活環境、極端な食料不足、労働の強制、自由の拘束という意味で、収容所となんら変わらないものでした。そしてゲットーは、1942年「ユダヤ人絶滅計画」が実行にうつされ、アウシュヴィッツをはじめとする絶滅収容所が建設されるまで存在したのです。

 

ゲットーも収容所も、ユダヤ人たちが家を追われ、送り込まれる手順は同じでした。ある日、突然”呼び出し状“が届けられるのです…「×月×日×時、×××に集まれ。出頭しない者は厳罰に処す…」。

 

ユダヤ人たちは、持つことを許された一家族50キロの荷物を持って、子どもの手を引き、赤ん坊を胸に抱えて、ドイツ兵に怒鳴られ、蹴とばされながら、住みなれた家を追われ、町を追われていったのです。 

 

移送
どれだけたくさんの 移送があったのだろう
どれだけの…
一回 二回 三回…?
 私には わからない
とうとう 私たちの番が来てしまった
ママが 荷物を集めている…

何を 持っていけるの?
一番……布団が一枚
二番……毛布が一枚
三番……つぎのあたった上着が一枚
四番……ボウルが一つ
五番……スプーンが一本
あぁ これが 私の世界のすべて……

 

作者不明/野村路子訳

 

 

ヨーロッパ中に存在した収容所

当時ドイツが支配していたヨーロッパ中の国々に収容所つくられました。その数は、小規模なものも入れれば8000から9000といわれています。強制収容所といっても、捕虜収容所、軍需工場に付属する企業付属収容所、新しい収容所建設や道路敷設のための労働収容所、アウシュヴィッツのようにガス室と大きな死体焼却場を持つ殺人工場とも言える絶滅収容所、そこへおくる人々入れておく中継地である移送収容所、さらには、人体実験のための収容所、女性だけの収容所、子ども収容所など、さまざまな目的にあわせたものがありました。

 

アウシュヴィッツへの中継地 テレジン

チェコスロヴァキア(当時)の首都・プラハから60キロほどのところにあるテレジンに収容所がつくられたのは1941年のことでした。その日から、解放される1945年5月まで、ドイツ名のテレージエンシュタットとよばれ、国内および主として西ヨーロッパ諸国のユダヤ人たちをアウシュヴィッツへ送りこむ中継地として使われました。

 


…ぼくらは もう慣れてしまった
何千人もの不幸な人々が つぎつぎと やって来て
さらに もっと不幸になるために ここから去っていくのにも…

 
ピーター・フィッシェル(1929.9.9生まれ 1944アウシュヴィッツへ) 

 


テレジンは、当時ドイツが占領、支配していた地域のほぼ真ん中に位 置しています。各国からここへ送られてきたユダヤ人は、およそ14万4000人。4分の1近い3万3000人が病気、飢え、過労、暴行、そして拷問や刑罰で、テレジンで亡くなり、8万8000人がアウシュヴィッツをはじめとする絶滅収容所に送られました。 

 

アウシュヴィッツへの“死の旅”

1942年1月、ヴァンゼー会議で“ユダヤ人問題の最終解決”が決定されました。ヨーロッパにいるユダヤ人を絶滅させるという計画です。それ以前から、山中に連れ込んでの射殺や、改造したトラックに排気ガスを引き込む“移動式ガス室”などで、大量 殺人はおこなわでれていましたが、この決定によって、より短時間に、より多くの人々を、間違いなく殺す方法として、チクロンBという青酸ガスが使われることになりました。アウシュヴィッツ、マイダネック、ヘルムノ、ソビボール、トレブリンカなどの収容所に、ガス室と、そこから大量 に出る死体を処理するための焼却場がつくられました。密閉されたガス室にチクロンBを使えば、30分足らずで、詰め込んだ2000人を確実に 殺せるのです。

 

絶滅収容所は、ポーランド国内の鉄道の通っている地域に設けられました。より多くの人を、一人の逃亡者もなく運ぶには鉄道を利用するのが最適だからです。出入り口が一つ、窓も小さなものが一つだけという、家畜運搬用の貨物列車が、“死の旅”の専用車になりました。牛や馬なら8頭を乗せる車両に、200人以上の人が詰めこまれました。列車は、ドイツ担当者の“綿密な計画”でヨーロッパ各地の収容所から、それぞれの絶滅収容所へとつぎつぎと人々を運びました。

 

走っては止まり、また走っては後戻りし、夜になると真っ暗な原野の真ん中で長い時間止まったままでいたりして、なかなか目的地に到着しない列車もありました。ぎゅうぎゅう詰めの車内は息もできないくらい苦しく、パン一切れ、水一杯与えられない人々は飢え、衰弱し、人と人の間にはさまれて立ったまま息絶える人も多くでました……それは、ドイツの計画どおりの結果だったのです。

 

管理するドイツ人の何倍もの人々の輸送です。目的地に着いた時点での逃亡や反抗を防ぐには、衰弱させておくのが良い、死者が出れば殺す手間がはぶける、それでも、元気の良いのがいれば、それはしばらく労働力として利用しよう……ドイツにとって、ユダヤ人たちは“労働力”として以外、なんの価値もない存在だったのです。