フリードル・ディッカー・ブランデイズ

フリードル・ディッカー(1916年)
フリードル・ディッカー(1916年)

テレジンを語るときに、決して忘れることのできない人です。
フリードルは、ウィーン生まれ。両親はユダヤ人でした。
幼いころから絵を描いたり、ネンドをこねたりが大好きだった彼女は、ウィーンの美術工芸学校で学び、その後、1921年に、生まれたばかりの前衛芸術運動の拠点『バウハウス』で学ぶためにドイツへ移りました。
 
『バウハウス』では、素晴らしい仲間と出会い、絵画だけでなく、彫刻、舞台美術、舞台衣装、テキスタイル、グラフィック・デザインなど総合芸術を学び、才能を発揮しました。卒業後、仲間と共に、活動の場をベルリンに移し、さらに故郷であるウィーンにもアトリエを開きました。

 

美しい色彩の手織りのテーブルクロスやブックカバー、独創的なデザインと機能性を重視した家具調度品は、ベルリンでもウィーンでも大変な人気でした。
そのころ、彼女が設計から、子どもたちの使う机や椅子、オモチャなど、すべてをデザインしたモンテッソーリ幼稚園は、大きな話題になりました。

 

……でも、その間に、ドイツの政情は大きく変わりつつあったのです。
ナチスの台頭。いつの間にか、自由な芸術の都ベルリンはユダヤ人に対する差別や虐待の横行する恐怖の街になっていたのです。

そして、ウィーンの街にもナチス信奉者がふえ、同じように……。 

 

仲間たちの中には、故国を捨て外国へ渡る人もいました。ベルリンの工房も、ウィーンのアトリエもこわされるなど、ユダヤ人であるフリードルに危険が迫っていました。
1934年、フリードルは、チェコスロバキアの首都プラハに移りました。
プラハでの生活は楽しく、彼女は、その美しい街の風景や、窓辺に咲く花親しくなった隣人たちの絵を何枚も描いています。
 
でも、1939年、ナチス・ドイツが侵攻、プラハの街でも、ユダヤ人の生活はさまざまな規制を受けるようになりました。

ユダヤ人の子どもたちは、学校へ行くことを禁止され、電車やバスに乗ることも、公園やプールに入ることも許されず、ひっそりと息をひそめるように暮らしていました。
フリードルは、そんな子どもたちを家に招いて、絵を教えました。
見つかれば処罰されることです。
 
そのころ、彼女の元をドイツ時代の友人たちが訪ねてきました。

苦心して手に入れたパスポートを持ってきたのです。
「今ならまだ間に合うわ。安全な国へ逃げて」というのです。

「貴女の才能を失いたくない」とー。
 

でも、フリードルは断りました。
「今、ここで絵を描くことだけを楽しみにしている子どもたちがいるの。あの子たちをおいて、私だけが逃げるわけには行かないわ」


そして、1942年、フリードルはテレジンに送られました。
持って行くことを許されるのは、一家族50キロの荷物だけです。
彼女は、呼出し状を受け取った夜、家に残っていた、ありったけの紙や布を集め、その一部を絵の具でさまざまな色に染め、トランクにつめました。
収容所がどんなところか分からないけれど、もしそこで子どもたちと出会うことがあれば、きっと役に立つはずだと思ったのです。 

 

子どもたちに生きる喜びを教えたフリードル・デイツカー先生

フリードル・ディッカーが収容所で描いた絵
フリードル・ディッカーが収容所で描いた絵

「テレジンの記憶には、楽しかったという言葉はあてはまらないですが、それでも、楽しかったと思える時間があるとしたら、それは、フリードル先生の絵の教室のときでした」

…生き残ったエディタも、ラーヤも、口をそろえてそう語っています。

 

親から離され、飢えや寒さに苦しみ、いつ<東>へ送られるかと不安におびえ、笑顔を失い、ただドイツ兵に命令されるままに労働の現場へ向かう子どもたち。それを有刺鉄線越しに見たおとなたちが、見つかれば処罰される危険を覚悟して立ち上がったのです。
「子どもたちを、このままにしておいてはいけない」
「子どもは、いつでも目を輝かせて、生きていることを喜ばなくては…」


テレジンには、ユダヤ人の教師や学者、詩人、音楽家、画家などが大勢いました。
彼らの話し合いの結果、子どもたちの学校を開こうと決まりました。それは容易なことではありません。収容所というところは。命令された以外のことをするのは、すべて規則違反として処罰されるのです。
でも、彼らは、「子どもたちの笑顔をとり戻すためなら命をかけて…」と、ドイツ兵に交渉しました。

何度も怒鳴られ、追い返され、断られ…でも、わずかな時間だけ、おとなが<子どもの家>に行くことが許されたのです。

 

「ユダヤ人には教育はいらない」と考えているドイツ兵が許可したのは、歌を歌うこととゲームをすることでしたが、「私はユダヤの歴史を」「私は美しい詩を」「物語を」と、何人もが先生になると名乗りを上げました。
「私は絵を教えます。絵を描くことは、生きる力になると私は信じています」と言ったのが、フリードル・ディッカーでした。
   
「今日は、とてもつらい日だけど、明日、戦争が終わるかもしれないのよ。希望を捨ててはだめ。きっと明日は良い日が来ると信じましょう」
「楽しかった日のことを思い出して絵を描きましょう。きっとまた、そんな日が来るわ」
…フリードルは、子どもたちに語り続けました。

 

フリードルは、アート・セラピーの勉強もしていました。絵を通じて子どもたちの抑圧された精神状態や不安な感情などからくる内面 の問題をよみとり、それに適切な語りかけをすることができたのです。そして、同時に、<ハウスハウス>教育をもとにした独特の指導法で、子どもたちの個性を引き出し、その感覚をも開発したのです。

 

子どもたちに絵を描くだけでなく、貼り絵や切り絵、コラージュなどを教え、自由な発想で作品を作らせました。収容所への呼び出し状を受け取った夜、彼女は、家にあった紙や布を集め、それを、絵の具でさまざまな色に染めました。どんなところへ連れていかれても、そこで、自分の力を生かせるせる機会があるはず…子どもたちがいれば、きっと私に何かができるはず…。と信じて、寒い冬のためのセーターをやめて、紙や布を収容所に持ち込んだのです。その紙が、どんなに子どもたちを喜ばせたでしょうか。

 

子どもたちは、すばらしい絵を描きました。
子どもたちが、家から大切に持ってきた紙やクレヨン、それに、フリードルが持ち込んだ絵の具や、美しい色の紙。
でも、それはすぐに足らなくなりました。紙がないと聞いたおとなたちは、ドイツ兵の事務所のゴミ箱から、丸めて捨てられていた紙を拾い集めました。故郷から送られたのだろう手紙の封筒、小包の包装紙、書類…しわを伸ばして、子どもたちに差し出したのです。

 

フリードルは、深夜こっそりと監視の目をのがれて、美しい花の絵を描きました。子どもたちに、花を見せたかったのです。世の中には、たくさんの美しいものがあるのだと教えたかったのです。「これがバラ、おうちの垣根に咲いていたでしょ?目をつぶって、あの香りを思い出してみよう…」

目をとじていると、バラでいっぱいの庭にいるような気持ちになれました。そして、たくさんの子どもたちが美しい花の絵を描きました。

 

大事にしまっておいたハンカチで人形をつくって、年下の子の誕生日にプレゼントをしたり、ドイツ兵の連れてる大きな犬をこわがる子に、プラハの家でかっていた、かわいい、おとなしい犬の絵をかいてあげたり…仕事のつらさや、食べるもののないことはおなじだけど、学校に行っていたころのような気持ちがすこしずつもどってきたのです。

 

テレジンの<女の子の家>でいちばん年下だったエリカは、大好きなフリードル先生の誕生日に、先生の好きな花の絵をあげようとしました。でも、その日、もう<女の子家>には、赤やピンクや黄色の絵の具もクレヨンもなくなっていました。シミのある紙に大きくハートを描いて、そこには花を描き”大好きなブランデイズ先生へ“と描いたカード…美しい色彩 はなくても、エリカの心は十分にフリードルに伝わったはずです。

 

子どもたちが、笑顔を見せるようになり、優しい気持ちをとり戻し、すばらしい才能を現すようになっていても、それは、ナチス・ドイツにとっては意味のないことでした。
子どもたちを<労働力>としてしか考えていない彼らは、病気になったり、衰弱したりした子どもを次々と<東>へ送りました。


1944年10月16日、フリードルも、<東>へ送られました。エリカをふくむ30人の子どもが、一緒の貨物列車に詰めこまれました。
その日の移送者のなかに、生きて「いい明日」を迎えられた子は一人もいませんでした。