テレジン再見 ―野村路子の語っておきたいこと―

どんな活動も、まずは拡げていくことから始まり、次にはそれをどう続けて行くか、さらに、後の世代にどう繋げて行くかが課題になります。『テレジン収容所の幼い画家たち展』は、野村路子の投じた小石が波紋をひろげ、全国の多くの方の協力で23年続いてきましたが、今、展覧会だけでなく、集まったたくさんの資料、野村が取材した生き残りの方たちの貴重な証言などを、次世代の方に引き継いで行く大事な時になっています。その方法を考えながら、“語りつぎ”たいことを、まず書いて行こうというページです。

2014年

6月

06日

番外編 「テレジン再見」を休んでいた理由 そして、これからも続ける理由

長い間お休みをしてしまいました。続けて読んでくださっていた方には申し訳なくお詫びします。

『テレジン再見』という形で連載を始めようと思った一番大きな理由は、テレジンに関わって23年も過ぎてしまったという実感と、それだけ齢を重ねた自分の年齢を考えたことでした。

 

今も、私は《テレジンを語りつぐ会》を名乗っています。でも、1990年に『テレジン収容所の幼い画家たち展』を開催しますと新聞に大きく載って、全国各地から、未知の方たちが会費を払って集まってくださった時の《成功させる会》とは、大きく違っていました。

あのときは、翌年から一年間、全国巡回展をしますという大きな目標があって、そのために協力を仰ぐというものだったのです。

 

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2014年

1月

27日

第12回 85歳になったディタさん

「私はとても元気です。昨年は、例年の4月のほかに11月にもまたプラハへ行きました」

イスラエルから、Happy New Year の挨拶のメールが届きました。

前回、ディタさんを日本に招いた時のエピソードの中で、私は、彼女が本当にわずかな食事しかしないことを書きました。あの折、せっかく日本で再開させてあげようとしたラーヤさんが体調を崩して来日が中止になったことも。

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2013年

11月

25日

第11回 ディタ・クラウスさん(3)

1990年、はじめて訪れたイスラエル。私は、『Beit Theresienstadt テレジンの家』に近いナターニアに滞在する4日間で、二人のアリサさん、ビリーさん、ディタさんと、4人のテレジン収容所の生き残りの方と出会いました。

 

ディタさんは、約束どおり、翌朝、車でホテルまで迎えに来てくれました。自宅に招いてくれたのです。青い海の近くにある白い家、というのが第一印象でした。庭にはさまざまな花が咲き乱れて「キレイ!」と言いたくなるような家。そこに、ディタさんは、ご主人のオットーさんと二人で暮らしていました。

オットーさんも、ホロコーストを生きのびた一人です。二人が出会ったのは、解放されて数年後、故郷のプラハでした。両親も祖父母も親戚もすべて失って、たった一人生き残ったディタさんは、世話になっていた施設を出て、どうやって生きて行こうか、不安でいっぱいでした。

戻ってきたプラハの街は、幸い爆撃にあっていなかったため、以前の街と変わらない景色でした。

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2013年

9月

04日

第10回 ディタ・クラウスさん(2)

1990年11月、『テレジン収容所の幼い画家たち展』の準備は進んでいました。
プラハのユダヤ博物館では、日本での展覧会のために、150点の作品の写真撮影が順調にすすんでいるという連絡が来ていました。

NHKの番組制作も決まり、私は、手に入れたリストをもとに、生き残った“子どもたち”に「会いたい、会って当時の話を聞かせてほしい」という手紙を出していました。でも、なかなか、受け入れてくれる返事が来ない…展覧会に向けての作業の方を優先した方がいいのかな、と思い始めていたころだったのです。 

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2013年

8月

29日

第9回 ディタ・クラウスさんとの出会い

コシチェルニャック展のことをお知らせしたり、被災地・石巻訪問記を書いたりで、『テレジン再見』をしばらく怠けてしまいました。折角読んでくださっていた方にはお詫びします。
その間に、イスラエルに住むディタ・クラウスさんとも、何回かメールのやり取りをしました。
“It’s awfully hot every day in Japan”  という私のメールに、彼女は、「日本に招いてもらって、たくさんの人に出会ったことが忘れられない。素晴らしい記憶がいくつもあるが、その一つは、あの日の日本の暑さ!」というメールをくれました。

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2013年

6月

21日

番外編 『地獄の中の愛 ミエチスワフ・コシチェルニャック』

テレジンから生きて帰った子どもたち、ヘルガさんやラーヤさんの話を書いてきました。同じ子どもだったディタさん、バコンさん、子どもたちの絵を見つけてプラハまで運んだヴィリーさん、イスラエルのキブツ<ギヴァット・ハイム>で、<Beit Theresienstadt>(テレジンの家)という資料館を作ったアリサさん……これまでにお会いした方たちのことを連載するつもりなのですが、今日は一つ、番外編を。

9月後半から4週間、埼玉県東松山市にある<原爆の図 丸木美術館>で、ミエチスワフ・コシチェルニャック展を開催する予定です。開催中に講演会も予定していますが、何よりも、丸木美術館に一人でも多くの方に来ていただきたいのです。そのために会期も長くしていただきました。コシチェルニャック展、チラシができたらまたお知らせしますが、とりあえず予告編です。

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2013年

6月

19日

第8回 ラーヤさんのお母さんとの別れ

1944年秋、国際赤十字の視察も、プロパガンダ映画の撮影も、ドイツ側にしてみればまさに“大成功のうちに”終わり、そのためにだけ特別に残されていたけれど、もう不要になった“嘘の大芝居の出演者たち”や、その事情をよく知る人たちを『東』へ送り出し、テレジンは、がら空きの状態になっていた。

あの日、街のあちらこちらを彩っていた花壇も、広場に作られた音楽ホールも、公園のブランコや砂場も、すべてとりこわされた。それぞれの部屋でも、窓につけられたカーテンや、ベッドに置かれた柔らかな毛布がなくなり、人が少なくなった分、一層、荒れ果てた感じになっていた。一時は、4人も5人もが“イワシの缶詰のように”重なり合って寝ていた三段ベッドにも、空きが目立つようになっていた。

“連合軍がすぐそこまで来ている”という噂がどこからか伝わってくるかと思うと、逆に“ナチス・ドイツは総力を結集して反撃している”という情報も入ってきた。

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2013年

5月

07日

第7回 ラーヤさんの絵は何を…?

ラーヤさんが描いた絵
ラーヤさんが描いた絵

ラーヤさんに会うことは、私にとって大きな意味がありました。

そのころ、私はまだ、テレジンの子どもたちの絵を数十枚しか見ていませんでした。プラハのユダヤ博物館に展示してあったのは、わずか十数枚。改革前のプラハでやっと手に入れた、うすっぺらなパンフレットと、ビロード革命を経て急激に変わりつつあった、三回目か四回目のプラハ訪問で手に入れた『TEREZIN』という厚い写真集に載っていたものを合わせても数十枚だったのです。

その中で、強く印象に残ったのは、博物館にあった首吊りの場面を描いた絵と、本に載っていたラーヤさんの描いた絵だったのです。

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2013年

3月

22日

第6回 ラーヤさんとの出会いまで

ラーヤさん
ラーヤさん

ラーヤ・ザドニコヴァー(旧姓・エングランデロヴァー)さんにはじめてお会いしたのは、ヘルガさんのお宅ででした。ガイスラーさんとヘルガさんで相談したのでしょう、私たちがお訪ねして2時間ほどお話した後に、ラーヤさんが来てくださったのです。

本の読者の方たちから「生き残った方をよく探しましたね」とか「よく会っていただけましたね」といわれますが、本当に、探すのも、会っていただくのも、すべて私一人の力ではとても無理だったはず、たくさんの方の手助けはもちろん、いろいろな幸運に恵まれたのだと、あれから二十年以上が過ぎた今、しみじみと思います。

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2013年

3月

07日

第5回 「一日だけの天国」で子どもたちが見たもの

「ヘルガさんは、自分たちは子どもだったけど、あの時、テレジンで行われていたのがファルスだと知っていたそうです」  

1990年12月、ヘルガさんに会ったとき、通訳をして下さったガイスラーさんは言いました。ファルス、false?……farce?……そう聞き返したのを覚えています。

「コメディですね」とガイスラーさんは言いました。いんちき、偽りのという意味の false でも、茶番劇をさす farce でも、どちらも当たっている、コメディーと言ってしまえば分かりやすいけれど、日本語でファルスと言ったほうが、両方の言葉が重なっていて良いなと気づいたのは、ホテルに戻ってテープを聴いたときでした。

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2013年

2月

16日

第4回 「テレジンは天国」という嘘

数日、外出を控えていました。風邪気味だったことも在るのですが、それよりも、雪の予報の出た日、霙から雪に変わり、数センチの積雪になった日はもちろん、雪が融けはじめて2・3日後でも、「雪が残っている間は外出をするな」と娘たちから禁足令が出されているのです。

昨年夏に転んで右手首を骨折、金属プレートで固定する手術をして回復はしたものの、大変な不自由と、まわりの方たちへの迷惑。「また転ぶから」と言われると口答えもできず……というのが現状なのです。

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2013年

1月

28日

第3回 ヘルガさんとの出会い(2)

第2回で、ガイスラーさんのことを書き始めたらついつい書きたいことがたくさんあって止められなくなってしまいました。思い出がいっぱいある人なのです。本題に戻るのに数日も間があいたことお詫びします。

へルガさんとの出会いや、彼女の話などは、今までにも『15000人のアンネ・フランク』や『子どもたちのアウシュヴィッツ』などの著書の中で書いていますが、あらためて、ここで書いて行こうと思います。

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2013年

1月

15日

第2回 ヘルガさんとの出会い(1)

昨日は、関東地方が思いがけない大雪になりました。電車の運転見合わせ、高速道路の閉鎖が相次ぎ、首都圏の交通網はマヒ状態、雪国の人からは、数センチの積雪なのにと笑われるのですが、雪かきの道具はもちろん、長靴も持っていない私は、家にこもっているしかない状態でした。

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2013年

1月

10日

第1回 私とテレジンの始まり

新しい年になりました。今年の年賀状にも、私は、テレジンのことを書きました。「…寒さを語るときに、いつも真冬のテレジン収容所を思い出します…ここで暮らしていた子どもたちがいたのだという実感が、今日まで二十年以上も、私を、テレジンにつなぎ続けている…」と。

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