第2回 ヘルガさんとの出会い(1)

昨日は、関東地方が思いがけない大雪になりました。電車の運転見合わせ、高速道路の閉鎖が相次ぎ、首都圏の交通網はマヒ状態、雪国の人からは、数センチの積雪なのにと笑われるのですが、雪かきの道具はもちろん、長靴も持っていない私は、家にこもっているしかない状態でした。

テレジンの講演会をするとき、どんな内容にするかは、会の目的、主催者の意向だけでなく、聞きに来てくださる人たちの年齢層などによっても、いろいろ変えています。話したいことは山ほどあって、どこの部分を、どのエピソードを使って話すのがいいのかと考えるのです。

子どもたちの描いた絵、書いた詩などから伝わる子どもたちの思いを主にすることもありますし、子どもたちに関わった大人たち、絵を教えたフリードル・ディッカー、収容所に残されていた絵を見つけてプラハまで運んだビリー・グロワー、イスラエルのキブツで博物館を作り資料の収集を続けているアリサ・シラーたちの記憶を中心に、テレジン収容所がどんなところだったかという事実、そこにいた人々のことを話すこともあり、さらには、生き残って私に話をして下さったヘルガ・ホシュコヴァー(旧バイッソヴァー)、ラーヤ・ザドニコヴァー(旧エングランデロヴァー)、ディタ・クラウス(旧エディタ・ポラフォヴァー)、イェフダ・バコンなどの話を伝えることもあります。母親大会や親子劇場あるいはPTAなどでよばれたときには、テレジンにいた子どもたちの親とのかかわりなどをテーマにすることもあります。

ヘルガさんの話は、父親とのエピソードです。雪が降ったせいでしょうか、今日は、それをお話したくなりました。

 

1990年、はじめて会ったときのヘルガさん
1990年、はじめて会ったときのヘルガさん(画像をクリックすると拡大でご覧いただけます)

私が、はじめてヘルガさんに会ったのは1990年12月23日。

戦争が終わって(ということは、彼女が生き残って収容所から解放されて、ということです)、すでに45年過ぎた時でした。

お訪ねしたのは、彼女の自宅。同行してくださったのは、ピーター・ガイスラーさん。この年のはじめ、ユダヤ博物館に対し、テレジンの子どもたちの絵を日本へ貸してくださいという交渉をはじめた時から、通訳としてお手伝いをお願いしていた人です。はじめてお会いしたとき、よれよれのトレンチ・コート、無精ひげ、もじゃもじゃの髪、ゆるめたネクタイ……その姿は、一時代前のテレビドラマに出てくる事件記者そのまま、びっくりしたものです。実は、日本のY新聞のプラハ支局長という肩書きなのです。

「うん、何か大きなニュースがあったら、その記事を書いて日本へ送る。何もなければ暇。そんなときは翻訳をしたり、日本の古典を読んだり、書道をしたりしているよ。去年(1989年)は大変だった。この国が大きく変わったのだから、忙しかった。革命(revolution)だもの、長い間、この国を支配していたソ連が出て行って、チェコスロバキアは独立して、新しい国民が選ぶ大統領が生まれた、すごい事件だったよ、こんな大きなニュースは滅多にないよ」と上手な日本語で話すのに、またびっくり。

 

その後、何度も何度も本当にいろいろお世話になった、彼なしには、私の日本での『テレジン収容所の幼い画家たち展』は成功しなかったし、数少ない生存者への取材も出来なかっただろうと思います。ガイスラーさんについて書き始めたら書きたいことがいっぱい、これは別の機会に譲りましょう。ここはヘルガさんの話です。