2011年イスラエル訪問レポート

第1回:ディタ・クラウスに会いにプラハへ

3月11日のあの地震の翌日、イスラエルのディタ・クラウスから「大丈夫ですか、日本の地震・津波のニュースを見てとても心配しています」というメールが届きました。
彼女とは、もう何年も会っていないのです。(多分、2001年のプラハで『テレジン もう蝶々はいない』コンサートを上演したとき、見に来てくださって会ったのが最後でしょう。)毎年「今年は会いたい」「来るのを待っています」などとメールをもらい、私も「会いたいですね」「今年は行きたいと思っている」と返事を出しながら、なかなかイスラエルへ行くことができず、数年前には私が「エジプトへ行った」と知らせたら「なぜ? エジプトへ行くならイスラエルへ来ればいいのに」とちょっと叱られたほどだったのです。ところが、今年になって「イスラエルへ来ることが大変なら、春にプラハへ行くから、プラハで会おう」というメールが来たのでした。

2年ぶりのプラハで
2年ぶりのプラハで

「久しぶりに、ヘルガやラーヤと会う」というので、行きたくなりました。テレジンの数少ない生き残りの仲間。ラーヤとディタは、幼いころからの友だち、ヘルガは、フリードル・ディッカーの教室へは行かずに一人で収容所の真実の姿を描き続けたというスゴイ人。ヘルガには、数年前にプラハへ行ったときに会って来ましたが、三人が一緒に会えるなら…、一緒にテレジンへ行けるなら…と期待がふくらみました。

5月はじめに、テレジンの解放記念日があり、そこへ出席するためならぜひ一緒に、と思ったのです。娘(今井亜紀)に同行してくれるよう頼み込んで、なんとか行く準備をすすめ、ディタともスケジュールの調整をしていたときに、あの地震でした。幸いに直接の被害はなかったものの、私の住む川越は計画停電。しかも、電車が途中で止まることが多く、ほとんど陸の孤島状態で、周囲の人に聞くと、早朝に家を出て途中まで車で行くとか、一番電車は動いているが乗れないほどの混雑とか…結局、地震後の二週間ほどは、仕事にも行かれない状況でした。娘からは、同僚の外国人がさっさと帰国してしまったとか、空港はパニック状態とかいう情報ばかり、行けるのだろうかと不安でした。

 

それでも行こうと決心した理由は、一つは、彼女たちももう80歳を過ぎた高齢、三人一緒に会う機会は最後になるかも知れないという思い、そして、もう一つは、被災地の実情が分かってくるにつれ報じられる幼い子どもたちの姿でした。幼稚園や学校へ行っていたために助かった子どもたち、でも、海の近くの家にいた母親が津波にさらわれて行方不明とか、子どもを迎えに行こうとして途中で流されたとか……一瞬のあいだに、家を失い、親や兄弟や祖父母を失った子ども、友だちが波に飲まれて流されていくのを見ていた子ども、そんなたくさんの子どもたちが、避難所で生活していました。テレビカメラの前で、笑顔を見せ、はしゃぎ、狭い廊下を走り回っていました。

 

レポーターは、それを見て「子どもたちは、こんな境遇の中でも元気です、明るい笑顔に励まされます」と語っていました。違う! 叫びたい気分でした。ディタたち、生き残った人たちと会い、話したとき、共通して感じたのは、苦しくつらい日々だったはずの収容所生活のことは、話してくれるのに、解放後、自分が助かった後のことになると言葉が少なくなり、表情が苦痛なものになることでした。
「生き残ったのは千の幸運と千の偶然だった」と言います。

でも、自分を語るときに「生き残ってしまった」と言うのです。

 

私は、コンサートの語りに「生き残った人は、生きたいと願いながら死んで行った人たちの思いをすべて背負い込んで、その後の生涯を生きなければならなかった」と書きました。本当に、そういう印象を得ていたのです。そして、何度も何度も会い、ようやく心を開いてくれたころに、はじめて「なぜ自分だけが?」「自分が生き残ってよかったのだろうか?」…そんな思いが、彼女らを苦しませつづけていたのだと聞きました。

 

ホテルの窓からモルダウ川とその向こうに国民劇場が見える
ホテルの窓からモルダウ川とその向こうに国民劇場が見える

イスラエルのナターニアという海辺の美しい街に住むディタは、花が好きで、家の回りにたくさんの花を咲かせ、その花を描くことが楽しみで、夫のオットーが収容所時代のことを小説に書く手助けをし、幸せそうに見えていたのに、「今は幸せですか?」という問いに「NO!」と大きく首を振り、「父も母も、祖父も祖母も、兄弟も、おじさんもおばさんも友だちも、みんな死にました。生き残っている私が幸せですとは言えません」と言いました。自分だけが幸せになってはいけない…そういう思いで生きているのでした。

今回宿泊したホテル近郊の風景
今回宿泊したホテル近郊の風景

あの被災地の子どもたち、今は、緊張状態で、人の前では明るく振舞わなければならないと幼い心に決めているのです。もう少し時間がたって、失ってしまったもの、もう戻ってこないものの多さに気づいたとき、自分だけが生きていていいのか、という罪悪感のようなものに捕らわれるかもしれません。そんなつらい思いをさせたくないという思い…私に何ができるかと心に問いつづけた結果、彼女たちの話をもう一度聞いてこようと思ったのです。


そして、出かけました。

(つづく・・・第2回:プラハでの再会