第4回 「テレジンは天国」という嘘

数日、外出を控えていました。風邪気味だったことも在るのですが、それよりも、雪の予報の出た日、霙から雪に変わり、数センチの積雪になった日はもちろん、雪が融けはじめて2・3日後でも、「雪が残っている間は外出をするな」と娘たちから禁足令が出されているのです。

昨年夏に転んで右手首を骨折、金属プレートで固定する手術をして回復はしたものの、大変な不自由と、まわりの方たちへの迷惑。「また転ぶから」と言われると口答えもできず……というのが現状なのです。

思い出せば、1996年にも、テレジンの講演会で行った沖縄・宮古島で転んで右脚を骨折、車いすで帰京という大さわぎがあり、数年前の柏市や都内文京区でのコンサートに杖をついて出ていた原因も転んで膝を強打したのが原因でした。体調の変化をすべて“加齢”という医者には腹が立ちますが、やっぱり“加齢”現象には気をつけないと!!と自覚しての休養でした。

家にいるならと、少し書棚の片づけを始めました。

 

テレジンに関しての本は、展覧会の図録として作ったものも含めると7冊ほど出版し、そのほかに『写真記録 アウシュヴィッツ』という全6巻の大著も手がけていますが、そんな自分の本以外に、その何十倍もの本があります。ホロコーストに関わるものは、歴史家の書いたものはもちろん、哲学者、社会学者、医者、心理学者などの著書が数十冊。ヒトラーに関する本も数十冊。それに、生存者の書いた本や各地の収容所の記録、エリ・ヴィーゼルやプリモ・レーヴィー、ハンナ・アーレントらの著書も揃い、映画「シンドラーのリスト」や「アンナとロッテ」「縞模様のパジャマを着た少年」「チャイルド・フッド」など映画化されたものの原作本、アンネ・フランクやコルチャック、杉原千畝などは、日本で出版されたものだけでなく海外から取り寄せた本もたくさんあり、さらに、チェコやイスラエルの書店で見つけた本、アメリカに住む友人が集めてくれた本……本当に大変な数になります。

それに、新聞や雑誌―全国紙はもちろん、地方紙、業界紙、機関紙、フリーペーパーに、自分で執筆したことだけでも数十回、インタビューに答えてお話したものが掲載されたことも多く、雑誌も、月刊の総合誌、女性誌、機関誌、業界や団体などの出している雑誌から、企業の社内報やタウン誌にいたるまで、そのコピーを貼ったスクラップ・ブックだけでも数十冊、掲載誌は書棚の数段を占めています。

数年前から「本は売れない」という言葉が挨拶のように交わされるようになり、これからはパソコンの画面で読む電子書籍が主流になるともいわれます。数百ページの本が小さなメモリー一つに納まってしまう時代なのです。

自分の著書はともかく、私が一生懸命に集めた本、雑誌や新聞から切り抜いた資料など、もう読んでくれる人がいなくなってしまうのか……それより以前に、この膨大な資料をデータで保存することを考えなくてはいけないのか。そんなことを考えていると、片づけの手は止まったままです。

 

1991年、東京池袋で開かれた『テレジン収容所の幼い画家たち展』
1991年、東京池袋で開かれた『テレジン収容所の幼い画家たち展』(画像をクリックすると拡大でご覧いただだけます)

数年前に、映像の資料のことでも困惑したことがありました。

1991年、『テレジン収容所の幼い画家たち展』開催当初から、NHK,民放各局のニュースや報道番組にもとり上げていただき、地方展の際は、地方局のラジオ・テレビなどにも数多く出演させていただきました。NHK、TVKでは、特別番組も作られ放映されました。

これらはみなVHSのビデオ・テープになっています。そのほかに、買い求めた映画のビデオ、海外で集めてきたドキュメンタリー、放映された番組を録画したもの。これらもかなりの数になります。このたくさんのビデオ・テープが、テレビを買い換えたりしているうちに、わが家のテレビで見られなくなり、慌ててDVDへのダビングを依頼したら、テープの劣化を指摘され……すべてのテープをダビングするには莫大な費用がかかることを知らされ……私自身の無知ともあいまって、今、膨大な資料の保管は、本当に深刻な問題になりつつあります。

<写真>1991年、東京池袋で開かれた『テレジン収容所の幼い画家たち展』

オープニング・パーティーの日。右から、在日チェコ大使館のレボラ書記官と、ヴィンケルヘーヘル大使夫人ヴラスタさん、同展主催者・野村路子。

 

今、私の書斎の本棚から溢れそうになっているたくさんの資料、本もビデオも、不要なものになってしまうなんて……と考えると落ち込んでしまうのですが、このホームページで、これまでに書いたことも含め、取材ノートにある大切な生存者の証言などを残しておこうと気持を奮い立たせて、このコーナーを始めたのです。

ぜひ、他のコーナーも見てください。私の著書を読んでください。テレジン収容所のこと、子どもたちのこと、フリードル・ディッカーのこと――。

1989年、私がプラハの街の小さな博物館で、子どもたちの絵に出会い、その絵が心から離れず、日本で展覧会を開こう、知った事実を伝えようと思ったとき、日本では、資料はまったくなかったのです。

 

一年間、外国の博物館から絵の借り出しを受けられるはずはない……、私一人の思い込みで、そんな大きな仕事ができるわけはない……プラハの街で買い求めてきた十数ページのフランス語版のパンフレットを見ながら、私は、自分の中に燃え上がろうとする熱い炎に水をかけていました。でも、どうしても、あの絵を忘れることができない、パンフレットを読んで知ったテレジン収容所の事実、そんな極限状態ともいえる中で、あんな美しい生き生きした絵を描いた子どもたちがいたという事実を、日本のたくさんの人々に伝えたい……その思いが一年間まったく変わらなかった、私は、自分の気持ちが嘘ではない、本気なのだと自信も持つことが出来て、行動に移りました。

勇気を出して訪れた在日チェコ大使館では、ヤン・レボラ書記官が丁寧に対応してくれました。1991年の展覧会開催を中心に前後の数年間、彼がどんなに誠実に私たちの会をサポートしてくれたか……言葉に尽くせないほど感謝しています。ところが、そのレボラさんが、最初の私の話を聞いたとき「知りません」と言ったのです。

「私はプラハ生まれ、プラハ育ちですが、そんな子どもの絵は見たことがありません」と。

それでも、彼はプラハの文化庁に問い合わせ、ユダヤ博物館と私の交渉の窓口を開いてくれました。そう、あの当時チェコスロバキアといっていた国が大きな変革を遂げている、まさにそのときでした。私がはじめてプラハへ行ったのは1989年2月。あの国は共産主義国、ソ連の支配下にあったのです。

空港の中はもちろん、街中でも目立つのは厚いカーキ色のコートを着、帽子をかぶった兵隊たちの姿ばかり。その空港では“強制換金”の制度があって、所持している外貨をすべて登録しなければならず、ホテルをリザーブするにも、他の街へ行く長距離切符を買うにも、国営の旅行会社へ行かねばならず、街の八百屋の店先には泥のついたジャガイモと玉ネギしか見られず、ショーウインドから見える店内に何もない肉屋にずらっと行列ができているという、あの光景は、今もふっと思い出します。街は薄暗く、たまにすれ違う人々は粗末な黒いコートを着て、あまり笑顔を見せず……そうそう、ホテル(外国資本の高級ホテルだったのに!)のフロントすら笑顔はなく、レストランの支配人がめずらしく笑顔で近づいてきたと思ったら「Change money, please」だったり、本で知っていた共産国の姿そのままだったのも、今になれば懐かしく貴重な体験でした。

後で知ったことですが、当時、ホロコーストの歴史を語ることは禁じられ、私が見たテレジンの子どもたちの絵は、もとユダヤ人街だった一画にあるJewish Community がささやかに展示をしているという状況だったのです。戦後生まれのレボラさんは、ホロコーストのことは歴史として学んでいたが、テレジン収容所のことも、子どもたちのことも知らなかった、日本での展覧会開催で、自国のことを知ったと涙を拭っていました。

 

日本では、そのころ『アウシュヴィッツ展』が開かれていました。その主催者に尋ねても、テレジン収容所は知らないという回答でした。それでも、私の展覧会の計画が新聞に報じられると、いくつかの反響がありました。

「テレジンはいい所だったのですよ。ドイツが作った理想の収容所です」というのです。

びっくりしました。私がプラハで手に入れた、たった一つの資料、薄いパンフレットには、テレジン収容所にいた1万5000人の子どもたちがわずかな食物しか与えられず、厳しい労働に追い立てられ、病気になったり、体力が弱ったりすると、貨物列車に詰め込まれてアウシュヴィッツへ送られ、ガス室で殺された。絵の教室を開いたフリードル・ディッカーは「明日はいい日になる、希望を捨ててはいけない」と教えたけれど、実際に、生きて「いい明日」を迎えられたのは、わずか100人だけだった・・・と書いてあったのです。「そこには、第二のアインシュタインがいたかも知れないのに」と。

その時、私が答えられたのは、そのパンフレットに書かれていたことだけでした。

 

事実は、ナチス・ドイツの大きな嘘、国が政策として対外的に「収容所は、ヒトラーがユダヤ人に与えた天国です」と主張するプロパガンダだったということを知らせてくれたのは、在日イスラエル大使館のラディアン書記官からの電話でした。

「興味あるビデオ・テープを手に入れました」と言われ、訪ねた大使館で私はそれを見ました。元気そうな若い男性が火花を散らしながら機会を操作している画面から始まったビデオは、女性たちが談笑しながら縫い物をしている場面、縫いぐるみを抱いた子どもが遊んでいる場面、仕事を終えた人々がキロに着く場面……普通の日常生活のような場面を次々と映し出しました。スポーツを楽しんだり、盛装してコンサートを聞いたり……。

 

プロパガンダ・フィルムの一場面
プロパガンダ・フィルムの一場面(写真をクリックすると拡大でご覧いただけます)

事実は、ナチス・ドイツの大きな嘘、国が政策として対外的に「収容所は、ヒトラーがユダヤ人に与えた天国です」と主張するプロパガンダだったということを知らせてくれたのは、在日イスラエル大使館のラディアン書記官からの電話でした。

「興味あるビデオ・テープを手に入れました」と言われ、訪ねた大使館で私はそれを見ました。元気そうな若い男性が火花を散らしながら機械を操作している画面から始まったビデオは、女性たちが談笑しながら縫い物をしている場面、縫いぐるみを抱いた子どもが遊んでいる場面、仕事を終えた人々が帰路につく場面……普通の日常生活のような場面を次々と映し出しました。スポーツを楽しんだり、盛装してコンサートを聞いたり……。

<写真>プロパガンダ・フィルムの一場面

“一日だけの天国”に向けての準備の間に、ナチス・ドイツは、比較的元気そうに見える子どもたちを選び出し、いつもとは違う食事―マーガリンつきの大きなパンや、ソーセージを食べさせた。少し顔色も良くなった子どもたちは、風呂に入れてもらい、髪も切り、きれいな洋服をきせてもらって、笑顔の練習までした。楽しそうに、教室へ向かう子どもたち。教室では、休職にイワシの缶詰が配られ、子どもたちは教えられたとおり「え~っ、またイワシ?」と、飽き飽きしたように声をそろえて言ったのだと、ラーヤ・エングランデロヴァーさんは話してくれました。

 

プロパガンダ・フィルムの一場面
プロパガンダ・フィルムの一場面(写真をクリックすると拡大でご覧いただけます)

『Heuler donated the town for Jewish』

1944年、アウシュヴィッツをはじめとする絶滅収容所のガス室はフル稼働し、ユダヤ人絶滅作戦はもう引き返すことのできない終局を迎えようとしていたとき、ナチスは、その事実を隠すために、国際赤十字の視察を受け入れ、その舞台をテレジンに決めたのです。視察団を迎えるために時間をかけて、収容所を改造し、清掃し、美しい花を植え、遊園地を作り、収容者の数を施設に見合った適切な数に減らし(そのために、この期間アウシュヴィッツへの移送が多くなったのです!)、元気そうに見える人々に、その間、栄養のある食物を与え、「教えられたこと以外には話すな」と脅した上で、そこで平穏に楽しい生活をしていますという芝居をさせたのです。視察団は完全に騙され「収容所は花であふれた美しい街だった」という報告書を作成ました。

その折に、ナチスは映画の撮影を行い、出来上がったものを諸外国に公開するという計画だったのですが、完成前にフィルムが戦乱の中で失われ“幻のプロパガンダ・フィルム”が存在すると言われながら数十年が経過。1980年代後半になって、その一部が発見され、それを基に編集したビデオだということでした。「自分もはじめて見て、びっくりした」というラディアン書記官は、イスラエルのヤド・ヴァシェムからの資料も取り寄せてくれていました。

<写真>プロパガンダ・フィルムの一場面

“一日だけの天国”に向けての準備の間に、ナチス・ドイツは、比較的元気そうに見える子どもたちを選び出し、いつもとは違う食事―マーガリンつきの大きなパンや、ソーセージを食べさせた。少し顔色も良くなった子どもたちは、風呂に入れてもらい、髪も切り、きれいな洋服をきせてもらって、笑顔の練習までした。楽しそうに、教室へ向かう子どもたち。教室では、給食にイワシの缶詰が配られ、子どもたちは教えられたとおり「え~っ、またイワシ?」と、飽き飽きしたように声をそろえて言ったのだと、ラーヤ・エングランデロヴァーさんは話してくれました。

 

プロパガンダ・フィルムの一場面
プロパガンダ・フィルムの一場面(写真をクリックすると拡大でご覧いただけます)

その直後、レボラさんからも、そのフィルムを利用してチェコで作られた『蝶々はもういない』というビデオをいただきました。こんなにも幸運な偶然があるのか・・・私が何も知らず、ただテレジンの子どもたちの絵を日本で見せたいという、その思いだけで動き始めていた時に、この貴重な資料が公開されたのです。(91年からの『テレジン収容所の幼い画家たち展』会場でも、このビデオを上映しました)

この事実は、一昨年『ナチス 偽りの楽園』という題名の映画になって話題になりました。ベルリンで役者として活躍していたユダヤ人クルト・ゲロンが、捕らわれ、テレジンに送られ、そこで、その経歴を見込まれて、プロパガンダ映画の監督をやらされたのです。ナチスの恥ずべき仕事に協力したと、仲間から軽蔑され、結局は、その経緯を知る人としてガス室に送られたクルト・ゲロンという実在の人物も興味深いものでしたが、それ以上に、あのビデオで繰り返し見ていた場面が、どうやって撮影されたか……ああ、あのビデオの中で見た、コンサートを聞く夫人の醒めたような表情、あの正装した紳士の虚ろとも思えた目は、こんなことだったのかと思い、しかも、それらの“登場人物”のほとんどが、撮影終了後にアウシュヴィッツへ送られたという事実を知るだけに、私にとっては、まるでドキュメンタリー・フィルムをを見ているような映画でした。

これらのビデオだけでも、ちゃんとDVDにダビングしておかないと、としみじみ思います。

<写真>プロパガンダ・フィルムの一場面

テレジンで、ユダヤ人たちは、仕事をしながら平穏な毎日を送っていると伝えるために、大人の人の働く場面、仕事を終えて帰宅する場面などが撮られた。

 

私は、テレジンに関わる以前、地方を歩いて主に老人からの聞き書きをまとめていた頃から、自分の目で見たもの、自分の耳で聞いたことを書く……を信条としてきました。テレジンの子どもたちの絵の展覧会を開こうと決めたとき、悲しいほどに資料はなく、私自身の知識もなく、新聞やテレビの取材を受けても「それについては知りません」「……と本には書いてありました」という返事しかできないのは、恥ずかしく口惜しかったのですが、それでも、資料の生齧りの知識を知ったかぶりをして話すのはよそう、とそれだけを心に決めていました。テレジンに関わってきた中で、一部の資料だけを見て、それを信じてしまうことの危険をしみじみ実感しました。今、生き残って語れる証言者の方々が年老いていくのを見ながら、この仕事の重さも強く感じています。

 

展覧会の準備の進む最中、このテレジンを舞台にした“一日だけの天国”の事実を知ったことは嬉しかったし、その直後に、実際にそこにいた人たちからの証言を聞く幸運にも恵まれました。

先に書いたヘルガさんも、この時テレジンにいた子どもの一人です。

この話は次回に書きましょう。

 

2013年2月10日 野村 路子