第5回 「一日だけの天国」で子どもたちが見たもの

「ヘルガさんは、自分たちは子どもだったけど、あの時、テレジンで行われていたのがファルスだと知っていたそうです」  

1990年12月、ヘルガさんに会ったとき、通訳をして下さったガイスラーさんは言いました。ファルス、false?……farce?……そう聞き返したのを覚えています。

「コメディですね」とガイスラーさんは言いました。いんちき、偽りのという意味の false でも、茶番劇をさす farce でも、どちらも当たっている、コメディーと言ってしまえば分かりやすいけれど、日本語でファルスと言ったほうが、両方の言葉が重なっていて良いなと気づいたのは、ホテルに戻ってテープを聴いたときでした。

「ずい分長い準備期間でした。もちろん、私たちは、国際赤十字の視察団がくることも、プロパガンダ映画の撮影があることも知りませんでしたよ。ただ、テレジンで何かが始まっているってことは、子どもにも分かりました。毎朝の点呼が念入りになって、病気の子や、怪我をしている子だけでなく、古い傷痕を調べたり、やせ具合や顔色をしつこく見て、あっちの列へ出ていろ!って言うようになったのですよ。毎日毎日、それまでより多くの人が“東”へ送られていきました。当然、残る子どもの数は減っていきます。それまで何人もが重なり合うようにして寝ていた三段ベッドも、一人で使えるようになりました。

そのころから、畑仕事もなくなって、代わりに部屋の掃除や、建物のまわりの片づけをやらされるようになったのです。そうそう、ある朝、起きてみたら、広場にあったたくさんの粗末なバラックがなくなっていて、そのあとに、新しくしゃれた建物を作っていました。おとなの人が大勢で、公園に花壇を作ったり、ブランコやすべり台を置いたり、ドイツ兵までが一緒に働いていましたよ。建物の外側を塗り替えたり、窓ガラスを入れたり……汚かった収容所が、きれいな街に生まれ変わっていくのですよ。

私たち子どもの部屋もきれいになりました。ゴミのなくなった部屋に絨毯が敷かれ、三段ベッドは、上の一段をはずして二段になって、暖かい毛布とふとんがおかれ、壁も天井も塗り替えられ、窓にはカーテンもつきました。 毎日の食事も、量がふえて、一日に一回は、マーガリンが一かけ、ソーセージが一本ついて、私たちは、少しずつ元気になって顔色も良くなりました」

ヘルガさんは、時折「ひどい話でしょう?」とか「とんでもないファルス」と繰り返しながら、話してくれました。

 

当時『女の子の家』だった建物
当時『女の子の家』だった建物

「そう、そのマーガリンで、私は生きのびたのよ」

となりに座っていたラーヤさんが言葉をはさみました。

「毎朝の点呼は、それまでの、働けない子をはずすのではなく、元気そうに見える子だけを選んで残すようになっていました。子どもにだって、それがわかりました。だから、みんな必死で元気にしていたのだけど、ある日、私はお腹の具合が悪くて、まわりの子に“顔色が悪いよ”って言われたのです。どうしようって思って、私はとっさに、朝食にもらったマーガリンを顔に塗りました。そうすれば、頬がつやつやして元気そうに見えるだろうって思ったのです。おかしいでしょう、でも、それでうまく行ったのですよ。 それから、私たちは集められて、役割を決められました。私は、学校の教室で授業を受け、給食を食べる役。ヘルガは違うわね」

「私は、コンサート・ホールの観客。おかしな話だけど、このファルスのおかげで、私ははじめてオペラを聴くことができたのですよ、スメタナの『売られた花嫁』だったわ。 テレジンには、素晴らしい音楽家が何人もいたのです。彼らは、収容所へ来るときに楽器を持ってきたのね、もちろん入り口で全部とり上げられたのだけど、その楽器を出して、オーケストラを作ったのです。ナチスは音楽好きだったのね、解放されてから知ったのだけど、あちらこちらの収容所にオーケストラがあったのですって。ファルスのために使われているとのだとわかっていても、音楽家たちは楽器を持って嬉しかったのでしょう。素晴らしい演奏だったと思いますよ」

 

ヘルガさんが描いた『移送』のブロンズ
ヘルガさんが描いた『移送』のブロンズ

「私たちは、イワシの缶詰をもらう練習をさせられました。もう何年もイワシなんか見たこともないのに、飽き飽きしたように “ おじさん、またイワシなの?” って言えと何度も練習をして、視察団の前で、口をそろえて言ったのですよ」

「おとなの人もそれぞれ役割があって、中でも、ユダヤ人評議会の委員たちは、視察団への挨拶の練習をさせられたそうです。シルクハットにタキシード、正装してご挨拶。決して、自分たちが虐待されているとか、飢え死にする人が多いとかは言わないように、命令にそむいたら全員を “ 東 ” へ送るって脅されていたのだそうです」

「私たちこどもは、二・三日前からお風呂に入って、身体をきれいにし、髪も切ってもらい、洗濯したての清潔な洋服をもらいました。みんな見違えるようになって、変だなと思ってはいても、やっぱり嬉しかったですよ。お互いを見て、ニコニコしたのを覚えています。夢を見ているみたいでした」

「あの時、赤ちゃんや小さい子どもがいたわね。労働力にならないのだから、普通ならすぐに“東”送りなのに、あの日のためにわざわざ残しておかれたのですって。赤ちゃんは、ふわふわの羽根布団に寝て、暖かいミルクを飲ませてもらい、小さい子は、ブランコやすべり台で楽しそうに遊んで、そこを視察団に見せ、撮影もしたのだけど、小さい子は、ブランコもすべり台も知らないのよ。“ お母さんと一緒に楽しそうに笑え ” って命令されてもなかなか笑わなかったって聞きましたよ」

「見たことない白いふわふわのパンを食べて、温かいスープを飲んで、みんな明日もまた、こんなパンとスープがもらえると思ったでしょうね、私だって、夢なら醒めないでって祈っていましたよ、でも……」

「視察団が帰った翌日から、“ 東 ” 行きの列車は長く連なって出て行きました。あの日が嘘の大芝居だったと知っている人を生かしておくのはまずいから、次々とアウシュヴィッツへ送って殺したのですよ。 視察団が来る前の準備の間にも、収容所の規模に見合った人数にするために大量処分して、終わったら証人になれる人を大量処分、本当に世界史上最大の嘘、ナチスが国の政策としてやった大インチキですよ」

 

イスラエルのヤド・ヴァシェム(ホロコースト虐殺資料館)の『永遠の火』の前
イスラエルのヤド・ヴァシェム(ホロコースト虐殺資料館)の『永遠の火』の前

ヘルガさんとラーヤさんが語ってくれた『一日だけの天国』の話は、90年、改革が終わったばかりのチェコでは、まだ公表されていませんでした。アウシュヴィッツのガス室が破壊され、機能しなくなったために “ 幸運にも ” 生き残って解放の日を迎えることができたヘルガさんやラーヤさんのような数少ない人々しか知らない事実だったのです。 

当時、新聞記者だったガイスラーさんですら「はじめて知りました」「いやぁ、知らなかったですよ」と繰り返しながら、頬の髭を撫でていたのを懐かしく思い出します。 

今も私は、時折、DVDにダビングしたプロパガンダ映画を見ます。楽しそうに笑っている子どもたちもいます。でも、笑えといわれても笑えないのか無表情に前を見ている人がいます。凍りついたような固い表情の人も……。 

たった一日でも、短い生涯の最後に、美味しいパンをお腹いっぱい食べて、暖かい毛布にくるまれて寝られたことは幸せだったといえるのだろうかと思うときもあります。でも、何も知らない赤ちゃんや幼い子どもたちまでを騙した、それが一つの国の政策だったということを考えると背筋を冷たいものが走ります。

 

子どもたちの絵につけられた名札を見ると、アウシュヴィッツへ送られた日付が、1944年6月と10月が多いのが目立ちます。天国を作るために邪魔だからと殺された子、天国が終わったら無用だからと殺された子、どちらも何の罪もない子どもたちです。あんなことがなかったら、今、子どもや孫に囲まれて幸せな老後を楽しんでいられたはずの人たちです。そんな遠い過去の話ではないのです。

次は、ラーヤさんの話を書きましょう。

 

2013年3月6日 野村 路子

 

<写真説明(上から順に) ※画像をクリックすると拡大でご覧いただけます>

(1)現在のテレジンの街は、要塞の中だけが収容所のまま残され、外の部分は、当時、他の地方へ移住させられていた人々が戻って、普通の街になっている。建物は当時のまま、博物館に転用されたものの他、中は改装され、アパート、コンサート・ホール、レストラン、食料品店などが並び、数年前にはMEMORIALというしゃれたホテルもできた。これは、当時『女の子の家』だった建物。今はアパートになっている。

(2)当時、呼出し状を受け取ったユダヤ人が集合させられたバラックのあった場処が、今はパーク・ホテルになり、その塀に、ヘルガさんが描いた『移送』のブロンズが飾られている。

(3)イスラエルのヤド・ヴァシェム(ホロコースト虐殺資料館)の『永遠の火』の前には、各地になった収容所の前が書かれている。