第6回 ラーヤさんとの出会いまで

ラーヤさん
ラーヤさん

ラーヤ・ザドニコヴァー(旧姓・エングランデロヴァー)さんにはじめてお会いしたのは、ヘルガさんのお宅ででした。ガイスラーさんとヘルガさんで相談したのでしょう、私たちがお訪ねして2時間ほどお話した後に、ラーヤさんが来てくださったのです。

本の読者の方たちから「生き残った方をよく探しましたね」とか「よく会っていただけましたね」といわれますが、本当に、探すのも、会っていただくのも、すべて私一人の力ではとても無理だったはず、たくさんの方の手助けはもちろん、いろいろな幸運に恵まれたのだと、あれから二十年以上が過ぎた今、しみじみと思います。

1989年当時のプラハ、ユダヤ博物館
1989年当時のプラハ、ユダヤ博物館

1990年はじめ、プラハのユダヤ博物館と、展覧会開催・絵の借り出しの話し合いを進めたころから、私は、資料で読んだ「1万5000人の子どものうち、生き残っていたのは、わずか100人だけだった」という言葉が気になっていました。「わずか100人」ではあっても、生き残った子どもたちがいるのです。戦争が終わって、テレジン収容所が解放されてから45年、当時15歳だった子どもは、60歳になって、どこで、どう暮らしているのだろうか……その子どもたちに会うことはできないだろうか……。

私は、ユダヤ博物館のヤン・サデック館長(当時)と、ガイスラーさんに問い合わせの手紙を出しました。

(またまた、いつもの脱線ですが、当時の連絡は、メールがないのはもちろん、博物館にはファクシミリもなく、電話もなかなか通じなかったり、途中で切れたり……ガイスラーさんの言葉によれば「つい最近まで、公然と盗聴があった国ですから」。「当然、手紙の開封、検閲も……」とはいえ、手紙でのやり取りは普通にできていました)

 

「何もないようですね。でも、私も関心があり、これから調査をしようと思います」というガイスラーさんからのファックス(当然、新聞社の支局にはファクシミリはあったのです)につづいて、「残念ですが、今のところ、生存者のリストはありません。必要だと思っています」というサデック館長からの返事が届いた数日後、大使館のレボラさんから電話がありました。はじめ、子どもたちの絵の存在をご存じなかったレボラさんですが、その後、休暇で帰国なさった時に博物館を訪ね、いろいろ資料を探す努力をしてくださっていました。

 

「テレジンにいた子どもの一人のことが、チェコの新聞に出ていました」というのです。

ズデネック・オルネスト。チェコでは有名な役者で、出演する映画についてのインタビュー記事の中で、子どものころ、テレジン収容所の『子どもの家』にいたこと、国際赤十字視察団に見せるオペレッタ『ブルンディヴァル』に出演したことが、今、役者になっている原点だと思うと語っている記事でした。(チェコでは、社会主義の時代はホロコーストについて語れなかったのが、改革後、さまざまな形で、多くの人が語るようになったことの現われだったのだろう)

「来月のプラハ行きのときに会いたいので、連絡を取ってください」とレボラさんに依頼、博物館の方で日程の調整もしていただけることになりました。「私も、彼の映画を見たことがあります」レボラさんも、ガイスラーさんも同じことを言うのですから、かなり有名な役者のようです。

 

……でも、私は、彼に会うことはできなかったのです。

今もよく覚えています。11月、訪れたプラハは、冷たい雨が降っていたこと、そのころ、よく使っていたパーク・ホテル(1941年当時テレジンへ送られるユダヤ人たちが集合させられた場所にある、ヘルガさんの絵のレリーフがある、あのホテル)から坂道を降りてきて、トラムの停留所の横にあった公衆電話だったことも。

 

博物館の学芸員アンジェラ・バルトショヴァさんから伝えられたのは、明日の約束ではなく、オルネストさんが、数日前に事故で亡くなったという知らせだったのです。

数日前といえば、私は、イスラエルで、やはりテレジンの生き残りの“子ども”の一人であるディタ・クラウスさん、『女の子の家』の世話をしていて、解放後に絵を見つけてプラハへ運んだヴィリー・グロアーさん、当時、大人でテレジンにいたアリサ・シックさん、アリサ・シェラーさん、そして『男の子の家』にいたイェフダ・バコンさんに会うという、想像もしていなかった素晴らしい出会いを重ねていたのでした。


なかなか会えないと思っていたテレジンの“子どもたち

……細い糸でつながっていたかのように、思いがけず実現した出会い。その収穫の大きさに高揚していた私は、オルネストさんの急逝の知らせで、一気に現実に引き戻されたような気がしました。

イスラエルで出会った人たちはみな、“幸運にも”お会いできた人でした。でも、オルネストさんには何回も連絡をとってもらい、ようやく実現できるはずだった出会いで、聞きたいことがノートにびっしり書いてあったのです。もう二度とお話できない……今、会っておかなければ……という、焦りがいつも私にあるのは、この別れがきっかけだったような気がします。


左:ディタさん 右:ラーヤさん
左:ディタさん 右:ラーヤさん

そんな経験をした後に、実現したのが、ヘルガさん、ラーヤさんとの出会いでした。

1990年後半になって、ユダヤ博物館で一挙に調査が進みました。翌91年が、テレジンの街にゲットーと収容所がつくられて50年目にあたり、そのアニヴァーサリーのために、現存する方たちのリストが作られたのです。

イスラエルへ出かける前に、私の手元に届けられたのは、23人の名前と住所でした。チェコ、オーストリア、ドイツ、アメリカ、フランス、イスラエル……さまざまな国名がありました。その中には、私がイスラエルで会ったディタ・クラウスさんとイェフダ・バコンさんの名前は入っていませんでした。

(まだ不完全な調査結果だったということであり、私が二人に会うことができたのは、いかに幸運だったかということです)

 

手紙を出しても、なかなか返事が来ません。「Return to Sender」戻ってきたものもありました。

「会いたくない」「申し訳ないがお断りする」……たった1行、タイプで打った手紙からは、幼い頃の記憶を封印して生きている人の、強い拒絶の意思が感じられます。もしかしたら、私の「テレジンの子どもたちの絵に感動して、日本で展覧会を開きます。その絵を描いていた人に会って、当時の話を聞きたいと願っています」という手紙すらが、その方の心を傷つけてしまったのではないか、日本語でなら、もっと上手に思いを伝えられるのに……と思ったり、思い出したくないのは当然、話を聞こうなんて思った私が間違っていると落ち込んだり、だけど、現実には、展覧会の準備にやらねばならない交渉事、さまざまな書類の作成など仕事は山積み。肉体的にも疲れ果て、情緒不安定になっていた時期でした。

 

だからこそ、イスラエルでの出会いは本当に嬉しいものだったのです。

「テレジンに送られる前からの仲良しだったラーヤが、プラハにいるわ。私はまだ会えないのだけど、会っていらっしゃい。手紙を出しておくから」 ディタさんの紹介でラーヤさんを知り、その親しい友人のヘルガさんは、自ら「話をしましょう」と応じてくださったのでした。

(またまた脱線ですが、これは1990年という、歴史上の大きな変化のあった年で、このことを記憶しておくのも意味があるように思えるので……。

イスラエルで会ったとき、ディタさんは「ラーヤに会うことは難しい」と言いました。1989年の改革まで、チェコスロバキアは、ソ連の支配下にある社会主義国でした。国民の生活は厳しく規制されていました。イスラエルとの国交もありません。何か特別な目的がない限り、互いの行き来はできなかったのです。私が訪ねた当時はまだ、イスラエルに住むディタさんが、生まれ故郷であるチェコを訪れることはできなかったのです。

テレジンの子どもたちの遺した絵についての調査が始まったとき、その絵を、収容所からプラハまで運んできたヴィリー・グロアーさんは、招かれて何度もプラハへ出向きました。そして、ラーヤさんが元気でいることを、ディタさんに伝えたのです。二人は、まだ戦争が始まる前の幸せだった子ども時代の仲良しでした。二人は、手紙で、お互いの無事、でもそれぞれに家族を亡くしていたことを知り、今は結婚し、子どもいることを伝え合っていました。でも、容易に会いに行くことはできない……私が、「プラハへ行ってラーヤさんに会います」と言ったときに、ディタさんが見せた表情を今も覚えています。まったく無関係な日本人の私は、好きなように、どちらの国にも行けるのに……。そのとき、彼女の夫、オットーさんは、ディタさんの肩を優しく叩いて「もうすぐ行けるよ」よ微笑みました。

本当に、今、ディタさんは、毎年、プラハを訪れています。

あの時、「行きたい、行ってみたい、という気持ちと、行くのが怖い、行けるかしら、という思いがある、とても複雑だわ」と、彼女は言いました。そんな気持ちをどう克服したのか、これはまた、ディタさんのことについて詳しく書くことにします。)

 

そんな経緯があって、私は、ディタさんの元気な写真を持ってラーヤさんに会うことになりました。

 

2013年3月22日 野村 路子

<写真説明(上から順に) ※画像をクリックすると拡大でご覧いただけます>

(1)1989年当時のプラハ、ユダヤ博物館

英語はまったく通じなかったが、ここで、テレジンの子どもたちの絵のことを書いた、薄いパンフレットを手に入れることができた。立っている人の服装などに、社会主義国の貧しさ、暗さが見える。

(2)ラーヤさん

(3)左:ディタさん 右:ラーヤさん

戦争が始まる前、まだチェコの学校へ通っていた頃。二人は、この頃から仲良しだった。同じ学校の友だち(チェコ人)が持っていたために、奇跡的に残った写真。幸せな子ども時代をかたる、たった一枚の貴重なものだ。