第10回 ディタ・クラウスさん(2)

1990年11月、『テレジン収容所の幼い画家たち展』の準備は進んでいました。
プラハのユダヤ博物館では、日本での展覧会のために、150点の作品の写真撮影が順調にすすんでいるという連絡が来ていました。

NHKの番組制作も決まり、私は、手に入れたリストをもとに、生き残った“子どもたち”に「会いたい、会って当時の話を聞かせてほしい」という手紙を出していました。でも、なかなか、受け入れてくれる返事が来ない…展覧会に向けての作業の方を優先した方がいいのかな、と思い始めていたころだったのです。 

<前月のプラハ行の際、私は、大量のフィルムを渡していました。あの時代、東欧のポーランド・チェコ(その時はまだチェコスロバキアでした)・ハンガリーなどは、改革もスムースにすすみ、街に華やかな色彩が見られるようになり、観光客がふえ、商店にも商品が並ぶようになっていましたが、それでも、家電製品とかフィルムなどはなかなか手に入らないのが実情でした。カメラマンはいるけれど、フィルムを提供してくれと言われびっくりしたのですが、どんなカメラを使うのか、どんな状態で撮影するのかもわからず、結局、35ミリ、ブローニー・サイズの、ネガ・フィルムとリバーサル、しかも、ネガは普通のものと高感度のものと、数百本になり、今、思い出しても、よく税関で捕まらなかったと怖くなるのですが、トランクの中はフィルムでいっぱいという状態だったという妙な思いでもあります>

「アリサとヴィリーから、電話があったわ。日本から、テレジンの子どもたちに会いたいという人が来ているって…。だから、来たのよ」

花模様のワンピースを着たディタさんは、青みを帯びた瞳で、笑顔の美しい人でした。

私たちは、ホテルのティールームへ行きました。広い窓からは、地中海の明るい青い海が見えます。沖の方には、いくつかヨットの白い帆、海岸には、鮮やかな赤や黄色のビーチパラソルが見えていました。美しい平和な風景でした。

イスラエルで会ったディタ・クラウスさん。左の腕に数字の入れ墨が見える。この番号のことなどは次回に。
イスラエルで会ったディタ・クラウスさん。左の腕に数字の入れ墨が見える。この番号のことなどは次回に。

私は、向かい合って座った時から、外の景色ばかり見ていました……それが、失礼な、お行儀の悪いことだとはよくわかっていました。(それまで何年間も、私は、人と会って話すことを仕事としていたのですから、相手の目を見て話さなければいけないと、よくわかっていたのです)でも……彼女の左腕の入れ墨が見えてしまったのです。5桁の数字が、はっきり見えました。

ああ、これが…。アウシュヴィッツへ行き、テレジンを歩き、ユダヤ博物館の展示を見、こうして、イスラエルまで来たけれど、ホロコーストの生き残りの証拠ともいえる入れ墨の痕を、実際に見るのは初めてでした。

見てはいけないのか、それとも、きちんと目を開けてみなければいけないのか、私にはわからないことでした。できることなら、彼女の腕の入れ墨は見たくない、気づかないふりをして、窓の外へ視線を送りたい…その気持ちを抑えて、私は彼女の青い目を見つめました。

いろいろ読んだ本によれば、当時、ナチスは、ユダヤ人を識別する方法の一つに、髪の毛や瞳の色が黒いことをあげていました。瞳の色を調べるための、色付きガラスがいくつか嵌めこまれた奇妙な道具も作っていたのです。

ディタさんは、髪の色も瞳の色も黒ではありません。

ディタさんは、本を二冊、テーブルの上に置きました。

一冊は、その年にイタリアで開かれた展覧会のときに出版された「TEREZIN」という図録。もう一冊は、一年前にチェコで出版された、同じ「TEREZIN」という題名の本で、テレジンの街の歴史から、ゲットー、収容所の実態、そこで行われていた文化活動、子どもたちの残した絵や詩、大人の画家が描いた絵、解放後の写真などたくさんの資料が載っているものでした。

私は、その二冊とも、前回の訪問の際に、ユダヤ博物館の学芸員アンジェラ・バルトショヴァさんからいただいて、日本で展示する絵や写真を選ぶために何度も見ていた本でした。

ディタさんが、テレジンで描いた教会の絵
ディタさんが、テレジンで描いた教会の絵

「ここに私の絵が載っています」

ディタさんは、付箋のついたページを開きました。

墨絵のように黒だけで描いた、塔のある教会の遠景。

チェコ語の本は、見開きいっぱいに大きく印刷された絵の上に、右ページに一つ、左ページに一つ、詩が印刷されていました。もちろん、私は覚えていました。

同じ絵は、イタリア語の図録にも載っていましたが、そこには「autore sconosciuto」作者不明と書かれているのです。

「ずいぶん前、たしか1959年に、エルサレムのヤド・ヴァシェム(ホロコースト虐殺記念資料館)で、展覧会があったのです。『Friedle Dikker and Her Pupils』って、テレジンの絵の教室の作品です。見に行ってびっくりしました。教室のことは覚えていたけれど、自分がどんな絵を描いたかは忘れていました。

でも、ああ、この絵は私の描いた絵だって、思い出しました。この景色は、いつも私が収容所の部屋の窓から見ていたのです。
もっとびっくりしたのは、私はアウシュヴィッツで死んだことになっていたのです」と、ディタさんは微笑みました。「もちろん、すぐに私は生き残っていますって言いましたよ」
絵の右下には Polach Dita というサインがあります。
「そのころの私の名前は、Edita Polachova です。チェコ語では、男性のPolach という姓が、女性だと Polachova になるのです。名前も、Edita ではなく、愛称としてみんなが呼んでいる Dita と書いたから、このサインの人は、生き残りの人の名簿にはない、つまり、アウシュヴィッツで死んだだろうってことになっていたのでしょうね」

ディタさんは、1929年生まれ、テレジンに送られたのは1942年、13歳の時でした。
「テレジンに着くと、大人と子どもは分けられました。10歳から15歳の子どもは『男の子の家』と『女の子の家』に入れられました。10歳になっていなければ、お母さんと一緒の収容棟に入れるのです。16歳以上は、もう大人の扱いだから、男か女かで分けられるの、だから、お父さんやお母さんと一緒になれた人もいます。
静かでしたよ、誰も泣いたり騒いだりせずに、命令されたとおりに動きました。お母さんと別れるのは悲しかったですよ、でも、みんな泣かなかったわ。もう、泣いてもダメなんだってあきらめていたのでしょうね。
『女の子の家』は、大きな立派な建物でしたよ、アパートメントだったのでしょうね、たくさんの部屋がありました。それぞれの部屋に分けられました。小さい部屋に三段ベッドがいくつも並んでいて、私が入った部屋には、30人くらいの子どもがいました。
寒かったです、1月なのに、ストーブがないのですから。家から出るときに、下着やセーターを重ね着して、その上に毛糸のマフラーをして、オーバーを着ていたのですが、そのまま寝ました。藁の入った布団が一枚しかなかったのです。
次の日にも、その次の日にも、新しい子どもたちが入ってきて、一つのベッドに何人もが一緒に寝るようになりました。そう、4人も5人もが、イワシの缶詰みたいに半分重なり合って寝るのよ。
それでも、最初のころはまだ、労働時間もそれほど長くなかったので、みんなが家から持ってきた本を見たり、ゲームをしたりできたのですよ。
状況はどんどん悪くなりました。食べるものも少なくなって、朝は“コーヒーと呼ばれる水”だけになりました。コーヒーじゃないです、‟コーヒーの配給!”っていうけど、違いますよ。色は茶色くてコーヒーみたいだけど、泥水みたいにまずかったです。
朝食はそれだけですよ、それで、朝から働くの。一日10時間以上も働きました、途中で、手を休めたら、監視のドイツ兵が飛んできて、怒鳴られたり、殴られたりするから、休むことなんかできません。
仕事は、私たちは畑仕事でした。塀の周りの土地を耕して畑にしていたのです。生まれて初めてクワやシャベルで土を掘り起こして、種を蒔いて、水撒きをして、ジャガイモやトマトを作りました。
男の子は、大人の人が建物を作るのを手伝っていました。材木を運んだり、レンガを運んだりしている姿を、ときどき見かけました。
友だちもいましたけど、声なんかかけられませんでしたよ。

 

お腹がすいてつらかったです、いつもペコペコでしたよ。
お昼は、スープが一杯、そこに、ピンポン球くらいの小麦粉のダンゴが一つ入っていました。ドイツ兵がね、大きなドラム缶に入ったスープを持ってきて、私たちは一列に並んで、自分のボウルに入れてもらうのです。
ドラム缶の上の方は、ただの塩水みたいなスープですよ、でも、下の方に行くと、ニンジンやジャガイモの皮、キャベツの切れっぱしなんかが入っているのです。ときには、ソーセージや肉のかけらがあるのですよ。
子どもでも、そういうことはすぐ覚えました。列の前に並ぶと損をするって。でも、あまり後ろのいると、スープが足らなくなってしまうこともあるのよ、そうしたら大変、お昼抜きになるのですから…。
だから、みんな必死でした。列のちょうど良いところに並ぼうと、人を押しのけたり、割り込んだり、そのころはもう、みんな自分のことしか考えられないようになっていて、楽しくおしゃべりするなんてこともなかったですね、だって、疲れ切って、部屋に戻ったらすぐ寝たかったですから。

もうそのころには、『東』への移送も始まっていました。
朝の点呼のときに、具合の悪い子が、列の外に出されるのですよ。最初は、いいな、休めるんだ、って思いました。でも、その子は夜になっても帰ってこない…そのうちに、ドイツ兵がよく『東』という言葉を使うようになったのです。「怠けていると『東』へ送るぞ」「役に立たない子は『東』へ送る」って。
いつからか、どこからか噂が流れてきたのですよ、誰が言い出したのか知らないけれど、『東』は恐ろしいところで、そこへ行った人とは二度と会えない。『東』には大きな煙突があって、一日中ものすごく臭い黒い煙を吐き出しているっていうのです。
そうか、あの列の外に出された子は、『東』へ送られたのだって、みんなわかりましたよ。だから、一生懸命に働きました。でも、同時に心配になりました、ずっと会っていないお父さんやお母さんは、『東』へ送られていないだろうかって…」

ディタさんは、静かな口調で話してくれました。私は、少し息苦しくなっていました。これまで、いろいろの本を読み、資料を見てはいましたが、実際に、ホロコーストの現場にいた人の話を聞くのはつらいことでした。話している彼女が疲れていないかも気になりました。楽しい話をしているのではないのですから、大変なストレスになっているでしょう。
いつ、どこで、話を打ち切ればいいのか、私は迷っていました。

そのとき、カチッと音がしました。テープレコーダーです。120分テープが終わったのでした。

「ありがとうございます、疲れたでしょう」

私は、ボーイさんを呼んで、冷たいジュースのお代わりを注文しました。さっき、ディタさんが「イスラエルのフレッシュ・ジュースは世界で一番おいしいのよ」とすすめてくれたジュースです。

乾ききった白い砂、大きな岩がごろごろあるイスラエルの土地、オリーブの木しか緑がなかった土地。戦争が終わって、何とか生き延びたユダヤ人たちが、ここを新しい自分たちの国とさだめ、移住してきて、耕し、石を運び、水を引き、オレンジの畑を作ったのです。

オレンジ・ジュースのグラスを口に運びながら、私は窓の外を眺めました。青い海、白いヨットの帆、平和な景色でした。

199010月、実際には、そのころ、イラクのクウェート侵攻は始まっていたのです。日本では、多くの人から、今、イスラエルへ行くことは危険だと言われていました。(実際には、その数日後に湾岸戦争がはじまり、帰国した日本では、イスラエルで、人々がガスマスクの配給を受ける場面が、テレビにニュースで報じられました) でも、そんな戦争の兆しはまったく考えられない静かな景色でした。

「ミチコ、明日は私の家へいらっしゃい。フリードル先生の話を聞きたいのでしょう」

ディタさんは言いました。もちろん、私は「喜んで」と答えました。明日、迎えに来るからと約束したディタさんは、立ち上がりかけた私に言いました、

「ミチコ、写真を撮らなくていいの?」彼女は、左腕を前に出していました。

「この写真、撮っていいのよ」

私は、目をつぶるような気分で、カメラのシャッターを押しました。シャッターの音が、彼女の腕に痛みを与えるのではないか…そんな気がして、二度も三度もシャッターを押すことはできませんでした。

ディタさんの住むナターニアの海 ヨットハーバーもあり、美しい砂浜がつづく海水浴場でもある。
ディタさんの住むナターニアの海。ヨットハーバーもあり、美しい砂浜がつづく海水浴場でもある。

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