第12回 85歳になったディタさん

「私はとても元気です。昨年は、例年の4月のほかに11月にもまたプラハへ行きました」

イスラエルから、Happy New Year の挨拶のメールが届きました。

前回、ディタさんを日本に招いた時のエピソードの中で、私は、彼女が本当にわずかな食事しかしないことを書きました。あの折、せっかく日本で再開させてあげようとしたラーヤさんが体調を崩して来日が中止になったことも。

あの頃、よくディタさんは「私たちはみんなそうなのよ」と言っていました。

みんな少ししか食べられない、みんなよく体調を崩す、みんな疲れやすい、みんな体力がない……そうなのだろうと思っていました。成長期の10代前半を、ほとんど飢餓状態で過ごした人たちです。ディタさんは、解放されたとき、「チフスで死にかけていた」状態だった人です。

ラーヤさんも、ヘルガさんも、口をそろえて「助け出してくれた兵士たちは、私たちの姿から目をそらしましたよ」と言いました。「体は汚れ、ぼろ布のような洋服を着ていたのも事実ですが、手も脚もがりがりに痩せているのに、栄養失調のせいでお腹だけがポコント出ている、あの姿、あなたも写真で見たことがあるでしょう?」と。

 

……そんな日から50年近くが過ぎて、私がお会いしたときに感じたのは、彼女たちがみな私よりも体格が良いという印象でした。

「生き残るには、千の偶然と、千の幸運があった」という言葉は、三人ともが口にしたことでした。確かに、あの日々のことを知れば知るほど、生き残ることがいかに難しかったか…、偶然や幸運に恵まれたのだとしか言えないようにも思います。でも、生き残った方に会っていると、あの飢餓を耐え抜くことができたのは、きっともともと体力に恵まれていた人なのだろうとも思えるのでした。ほんのわずかな体力の差が、生死の隔たりになったのかと。

 
オットー・クラウスの著書『THE PAINTED WALL』
オットー・クラウスの著書『THE PAINTED WALL』

彼女たちは、三人とも1929年生まれ、85歳になります。ラーヤさんは、数年前から体調を崩し、前回の私のプラハ行の時にも入院中ということでしたが、ヘルガさん、ディタさんは本当にお元気です。

「また会いましょう。会える機会を待っています。」というメールは、私にとって、何よりも嬉しいものでした。

ディタさんは、今、イスラエルのナターニヤという海辺の家に、一人で暮らしています。以前、私が何回か訪ねたころは、ご主人のオットーさんと二人でした。

亡くなったオットーさんは、もの静かな優しい人でした。英訳された彼の作品が数冊、私の書棚にあります。いつか、日本語にしたいと思いながら、なかなか読むこともできず…。

(ディタさんはよく「世界中の人が同じ言葉を使うといいのにね」と、私に言います。「共通の言葉なら、ミチコが書いた本が読めるのに」というのです。「せっかく私のことを書いてくれた本なのに、読めないなんて悔しい」と。)

写真:オットー・クラウスの著書『THE PAINTED WALL』

表紙に使われている絵はハナ・カルプルソヴァ―(1930.1.4.生まれ/1940.10.6.アウシュヴィッツへ)作、ドイツ兵が捨てた封筒を開いて、その裏に描いた絵。

 

ディタさんのことについて、いろいろ書いてきました。彼女とは会った回数がいちばん多いので、語っていただいたことも多く、思い出も多いのです。

最後に、悲しくつらい事実をお伝えしたいと思います。

ディタさんからのメールには「私はとても元気」という言葉の後に「でも、悲しいことに、長男の病気は悪くなっています」とあったのです。

彼女とオットーさんの間には、二人の息子さんがいます。

長男のことについて、私が初めて知ったのは、彼女が、私たちの招きで日本へ来て帰国したあとにとどいた手紙でした。

「次男がアメリカで結婚するので、二人で行くつもりでいたが、長男が、私の日本行きの間に具合が悪くなったので、今度はオットーだけがアメリカに行くことになった」と書いてあったのです。

私は、急いで見舞いの手紙を出しました。留守中に何か重い病気になったのかと心配しながら、彼女から聞いていた話からすると、長男はもう44・5歳になっているはずだなとも考えました。

 

ホロコースト・シンドローム

ディタさんを日本に招いてから半年後、1991年12月に、日本で初めての『テレジン収容所の幼い画家たち展』が終わりました。北は、北海道 札幌・士別から、南は鹿児島まで全国23会場巡回展。当時の新聞は、「82000人が、見た、泣いた。各会場に感動の涙」と、その成果を大きく伝えてくれました。

各会場に置いたカンパ箱、ホロコーストの犠牲になった子どもたちの、生きた証ともいうべき絵を保存するための多額のカンパも集まりました。

もともと拾い集めた紙、しかも解放されたテレジンで見つけてプラハに運ばれてから数十年、トランクに詰め込まれたまま、教会の地下室で忘れられていた絵は、劣化が激しく、手に取るだけで破れてしまうほど傷んでいるものもありました。

実際、日本で展示する絵を選ぶとき、こわごわ扱っていたのですが、それらを保管するケースすら足らない状況で、一枚いちまい紙に包んで引き出しに入れてあったのですが、その包む紙が質の悪い新聞紙や包装紙だったことに、私はとてもショックを受けていました。

(ティッシュぺーパーもなく、高級ホテルのトイレットペーパーすらごわごわの堅い紙だったのですから、当然と言えば当然だったのでしょうが)

 

ユダヤ博物館のアンジェラ学芸員と展覧会の報告を渡す野村路子
ユダヤ博物館のアンジェラ学芸員と展覧会の報告を渡す野村路子

当時の学芸員アンジェラさんは、日本滞在中に、柔らかい紙、上質なナプキンなどを手にするたびに、大切に畳んでバッグにしまっていました。見学に行った安田火災(当時)の東郷青児美術館でも、絵そのものよりも、その保管の仕方に感心していたものです。

私たちは、日本での展覧会開催を快諾し、150枚の写真フィルムと、6点の原画を提供してくれたユダヤ博物館へのお礼として、絵の保存のためのカンパを呼びかけていたのです。(その後、チェコではIT化がすすみ、今はすべての絵がデータ管理されるようになりました。実物の絵が、今はどんな形で保管されているのか、行くたびに気になりますが、あれから20年以上が過ぎてしまった今、残念ながら、その保管庫へ入れていただく機会はありません。)

 

写真:ユダヤ博物館のアンジェラ学芸員と展覧会の報告を渡す野村路子

1990年、テレジンの子どもたちの絵の借り出し依頼をした時から協力をしてくれた学芸員のアンジェラ・バルトショヴァさんは、日本にも招き、 親しくしていた。ユダヤ博物館を訪れたこの日も、夜は、彼女に誘われてビアホールへ行ったのだが、92年になって、彼女との連絡は、突然に、しか も完全に途絶えてしまった。

チェコは、「ビロード革命」といわれ、スムースに行われた改革ではあったが、国がまったく変わるという、日本では想像もできない状況のもと、改革 後には、旧制度下で公職についていた人が次々と離職。さまざまな憶測のうわさがあったのも事実であり、今も、彼女がどうしているのか、時折懐かし く思い出す。

 

そのカンパをユダヤ博物館に寄付し、テレジン博物館やヤド・ヴァシェム、ベット・テレジエンシュタットなど関係機関に報告とお礼をするため、私は12月にチェコ、イスラエルへ出かけました。ディタさんの自宅で、オットーさんも一緒に彼女の手作りの昼食をいただき、オレンジ畑やアラブ市場を案内していただき、楽しい時間をすごした帰途でのことでした。

テルアビブ行のバスに乗るため、ターミナルに向かう途中で、ディタさんが「あそこの5階に長男の家がある」と、高層アパートを指さしたのです。

「この前、お病気だったと聞いたけれど、もう良くなっているの?」と私は聞きました。「私たちにはよくあることだと言われるのだけど…」

彼女の言葉は、よく言う「私たちはみんなそうなのよ」と同じようで少し違っていました。

「彼は、精神を病んでいるの」ディタさんの声が低くなったようでした。

「生き残りの人の子どもにはよくあることなの。肉体的にも虚弱なのだけど、それより問題なのは精神的な弱さ。彼は、何かを失うことの不安や恐怖感が大きくて、それを感じた途端に肉体にも変調をきたしてしまうのよ」というのです。

「結婚したのだけど、うまく行かないで離婚、今は一人で暮らしているの。仕事もしているけれど、何かあると仕事にも行かれなくなって…。私が、日本へ行っている間もひどい状態だったようです。オットーがアメリカへ行ったときもね。大切な人がいなくなってしまったら、どうしよう?と思うのでしょう…パニックになってしまうの、元の妻は、それに耐えきれずに別れたのだけど…」

 

私は、ヘレン・エプスタインの『ホロコーストの子どもたち』という本を読んでいました。アウシュヴィッツの生き残りの男女を両親に、アメリカで生まれた著者は、幼いころから、自分は他の人とどこか違う、うちの家族は他の家庭と何か違う…という違和感に苛まれながら、その原因を両親に問うことができず成長したというのです。

社会にうまくなじめない両親、常に被害者意識を捨てきれない両親…そんな両親と自分の間には、目に見えないが、どうしても越えることができない厚いガラスの壁があるように感じて育つ少女、それを叩き割って両親の心に触れることができない苛立ちやもどかしさ。

それは、ホロコーストを生き抜いた<子どもたち>とはじめて出会ったころの私には、余りにも重く大きな現実でした。

 

ヘレン・エプスタインは、自分の苦しさから出発して、心理学や精神病理学を学び、自分と同じ苦しみを抱きながら生きている<生き残りの子どもたち>を訪ね歩き、明るく恵まれた環境で暮らしているように見える彼らも、美しく華やかな日々を過ごしているように思われる彼女らもが、自分と同じように、心の奥底に、どうしても捨て去ることのできない、何か得体の知れない黒い塊を抱き続けていることを知るのです。

《ホロコースト・シンドローム》《生きのこり症候群》 そんな言葉で呼ばれる、いわば病気のようなものがあると、その本で知ってはいても、ディタとオットーの穏やかで幸せそうな生活から、その息子のことを想像することもできませんでした。

 

以前、ディタに会ったとき、10代前半、いわば思春期の少女たちが収容所で過ごした日々、すでに初潮を迎えていた少女もふくめ、誰も生理にならなかったと聞いたことがありました。

解放されて、普通の生活に戻れてもなかなか肉体は正常に戻れなかったこと、オットーと出会い、肩を寄せ合って暮らすようになっても、自分に子どもが恵まれるなんて期待はしなかったこと…そして、だからこそ、長男の誕生は何もまして嬉しく、感激したほどの喜びだったことも。

 

エプスタインの本には、<本当は生まれてくるはずのなかった子ども>たちはみな、個人としてではなく<新しい世界のすべての期待を担った命>として成長しなければならない、そして、両親の<何が何でも絶対に幸せになるのだ>という願いを託されて生きなければならない、その重荷の悩みや苦しみが書かれていました。

オットーとディタも、長男に夢を託したでしょう。

イスラエルに移住したのちも、石ころだらけの大地を耕し、水を運び、種を蒔き、生きて行くために必要な糧を得るための厳しい日々だったといいます。

キブツを出て、学校の教師になり、自分たちの家を建て、息子たちを育て…幸せになりたかった、なれたと信じていたはずです。

 

あの日、私は、バスが来たことで救われたように、ディタに別れを告げました。肩を抱き合って、「また会いましょう」と約束しました。

あれからもう20年以上が過ぎました。

その間に、オットーが倒れ、数年の療養生活(その間に、私は、テレビ番組のロケでイスラエルを訪れ、ディタの自宅で、彼女のインタビューの場面を撮りました。撮影が終わって帰るとき、オットーの枕元で手を握ったとき、彼が、以前に私が教えた日本語で「サヨナラ」と言ってくれたことを、今も懐かしく思い出します)を経て亡くなりました。

何度も、手紙、いつからかメールにかわって、やり取りをしました。何度か会うこともできました。

「私は元気だけど、長男が具合が悪いので心配です」と書いてきたことが何度もありました。

85歳になったディタは、元気で、優しい笑顔は、はじめて会った時のままです。

 

今度会うことができたら、長男のことをきちんと聞きたいと思います。

<テレジンの子どもたち>とかかわって生きてきた私ですが、その子どもたちが年老いた今、<テレジンの孫たち>が、親たちの負の遺産をどう受け継いでいるのか、それにも、かかわらなければならないような気持になっています。