東京都内の図書館で、『アンネの日記』とその関連図書が破られていたというニュースを知ったのは、二月の終わり近い日でした。
テレビの画面に、大きく裂かれた本のページ、さらにカメラが移動して積み上げられた数冊の本が映ったのですが、その中に、見なれた表紙があったのです。
『写真記録 アウシュヴィッツ』。
95年に、アウシュヴィッツ解放50周年を記念した出版をしたいという企画が、ほるぷ出版からありました。
89年に、テレジンの子どもたちの絵と出会い。91年から全国巡回の展覧会を開き、関係者、生きのこりの方へのインタビューを重ね、『1万5000人のアンネ・フランク』『テレジンの小さな画家たち』を出版したあとでした。
歴史家ではないと、最初から言っていた私の視点を尊重してくださっての企画で、構成・編集すべてを任されて作ったものでした。その全6巻の中の、第4巻でした。サブタイトルに「そのときアンネ・フランクは」「子どもたちは見ていた」とあり、表紙に、アンネの写真を使っていました。
ニュースは、誰が?何のために?と、私が抱くのと同じ疑問を繰り返すだけで、何の手がかりも与えてくれませんでした。
何か嫌な気分、とても恐ろしいことが起こっているような気がしました。
一年余にわたり、アメリカやイスラエル、ポーランド、ドイツなどいくつもの国の博物館や収容所跡を訪ね、資料館を回り、資料を集め、取材をしました。
貸し出しを受けた写真は、段ボール箱十数個にもなるほどたくさんでした。そのほとんどは、死体の転がる収容所、死者の遺した毛髪や靴や眼鏡の山の写真、食べ物が喉を通らない日が続き、夜も眠れなくなり、浅い眠りの中で、軍靴の音や銃声に驚かされて飛び起きたりする日が続きました。
友人たちから、少し休めと言われて、やっと作った休息の日にも、ガス室の壁に残る爪痕や、怯えた子どもの目が、脳裏から去ってくれない…そんな日々を過ごし、命を削って(実際に、この過程の中で、原因不明、ストレスからきたと思われる難病指定の病気を発症しました)作った本だったのです。
数日の間に、被害は拡大しました。40にも及ぶ図書館で、300冊を超える本が破かれているのが見つかったとニュースも大きくなりました。これまでの私の活動に関わってくれた人や、本の読者などから、「あの本は大丈夫ですか」「何か被害は?」などという電話やメールが届き、BBCニュースを見ている娘からは、日本でよりも、海外では大きく取り上げられているという話も聞きました。
知人の新聞記者によれば、犯人は「アンネ・フランク」をキーワードに検索して、関連書籍を探したらしいということでした。
それで、あの『写真記録』の第4巻がと納得はできました。
そして、イスラエル大使館が、最も被害の多かった杉並区に関連の本を贈呈するというニュースがありました。ネットのニュースで、私の著書『1万5000人のアンネ・フランク』が映っていたのです。イスラエル公使と並んだ杉並区長が手にしているのが、私の著書でした。
私の著書は、アンネ・フランクを書いたものではありません。この本で書いたのは、テレジン収容所にいた子どもたちのことです。
ホロコーストで犠牲になったユダヤ人は、600万とも、650万とも言われていますが、そのうち150万は子どもでした。
明日への希望や夢を持っていた子どもたちが、ユダヤ人に生まれたという、それだけの理由で、その夢や才能を花開かせることもなく命を断たれたのです。アンネ・フランクと同じように…。
テレジン収容所にいた1万5000人の子どもたちは、つらい境遇の中で健気に、一生懸命に生きていました。絵を描き、詩を綴り、素晴らしい才能を発揮する子もいました。みんな、明日、戦争が終わって自由になれたら…と夢を見ていました。それなのに、理不尽な力で、短い生涯を閉ざされてしまったのです。
私は、そんな子どもたちがいたことを知ってほしくて、『テレジン収容所の幼い画家たち展』を開きました。
そのとき、テレジンという収容所の名前は、日本ではまったく知られれていませんでした。そのため、仲間からのアドバイスもあって、展覧会のサブタイトルに、「1万5000人のアンネ・フランクがいた」という言葉をつけたのです。
アンネは一人だけではない。あの時代、たくさんのアンネがいたのだと、知ってほしかったのです。
展覧会が終わってすぐに書いた本が『1万5000人のアンネ・フランク』というタイトルにしたのです。
その後もずっと、テレジンのことを書き続けてきました。
わずかな生還者を訪ねる旅を続けてきました。思い出したくない、できるなら鉛の箱に封じ込めて水底に沈めておきたいであろう、つらい体験、悲しい記憶を、掘り起し、「聞かせてください」と頼み、それを書くことを仕事としてきました。
彼らが語ってくれたから書けた本でした。だから、私の著書ではあるが、私のものではない、かつて迫害を受けた人たちのものだと思っていました。
彼らが血を吐くような思いで語ってくれたものを、傷つけられるのを黙ってみ見ているわけには行きません。彼らの本が破かれることは、彼らが、もう一度傷つけられているのだという気がするのです。
かつてナチスのやった犯罪行為の一つに「焚書」ということがあります。
『写真記録』の中には、ベルリン大学前の広場で燃えさかる炎とその周りで大騒ぎをする学生たちの写真、フランクフルトの大学の玄関を、たくさんの本を抱えて誇らしげに降りてくるナチス高官たちの写真を掲載していました。
アインシュタイン、フロイド、トーマス・マン、シュテファン・ツヴァイク、ジャック・ロンドン、ローザ・ルクセンブルグ…ドイツという国を自分の思いのままに動かせると信じていたヒトラーと、その同調者たちが、ただただ自分たちの気に入らない本を選び出して燃やしたのです。その数は、ベルリンだけで二万冊にも及んだと言われています。歴史ある大学で学んでいた大学生たちが、貴重な書籍を炎の中に投げ込み、歓声を上げたというのです。
そして、トーマス・マンをはじめとする多くの作家や芸術家、学者たちは、彼らの著作を炎の中に投げ込むような国は、もう自分たちの住むところではないと見切りをつけて、亡命の道を選んだのでした。
そんな大がかりなことではないと言う人もいます。単にいたずらでしょうと言う人も。今の日本で、「焚書」なんて、と笑った人もいました。
今、この原稿を書いている時点では、詳しいことは何も分かっていません。どんな人が、何を目的にしているのか…。
ただ、対象が、アンネの関連書籍であることに、嫌なことですが、何か特別意図を感じないわけにはいきません。しかも、写真で見る破かれたページは、かなりの力をかけて破いたもののようなのです。そこに強い感情、激しい意志を感じられることが、私には、何よりも恐ろしく思えてなりません。
仮に、いたずらだったとしても、私はやはり許せないと言いたいのです。
文学者のひとりとして、命がけで書いた本を傷つけられたことは本当に悲しいのです。そして、その行為に対し、心から怒りを覚えています。
一日も早い解決と、二度とこのようなことが起こらない社会になってほしいと切に願っています。
2014年3月3日 野村 路子