番外編 「テレジン再見」を休んでいた理由 そして、これからも続ける理由

長い間お休みをしてしまいました。続けて読んでくださっていた方には申し訳なくお詫びします。

『テレジン再見』という形で連載を始めようと思った一番大きな理由は、テレジンに関わって23年も過ぎてしまったという実感と、それだけ齢を重ねた自分の年齢を考えたことでした。

 

今も、私は《テレジンを語りつぐ会》を名乗っています。でも、1990年に『テレジン収容所の幼い画家たち展』を開催しますと新聞に大きく載って、全国各地から、未知の方たちが会費を払って集まってくださった時の《成功させる会》とは、大きく違っていました。

あのときは、翌年から一年間、全国巡回展をしますという大きな目標があって、そのために協力を仰ぐというものだったのです。

 

幸い、大企業の協力をいただき、91年、原画7点も含め、チェコからの150点。イスラエルからの25点の絵のレプリカ――140枚のパネルを使った展覧会は、北は北海道・士別から、南は九州・鹿児島まで23の会場で、立派な展覧会を開くことができました。

開催に向けて動く傍ら、数少ない生存者へのインタビューを重ね、『15000人のアンネ・フランク』『テレジンの小さな画家たち』『子どもたちのアウシュヴィッツ』『テレジン収容所の幼い画家たち・詩人たち』『フリードル先生とテレジンの子どもたち』と、5冊の本を出版し、さらに、アウシュヴィッツ解放50周年記念出版の『写真記録アウシュヴィッツ』(全6巻)を作ってきました。

 

もう、これで良い、ここまで頑張ってきたのだから、そろそろ終わりにしても良い……何度かそう思いました。

最初の《成功させる会》は、集まったカンパをすべて、テレジンと、プラハのユダヤ博物館、イスラエルの「テレジンの家資料館」に寄付をして事業は終了、解散していましたから、いつでも終わりに出来るはずだったのです。

でも、その後も展覧会は続きました――続けなければならないほどに、終了宣言後の反響が大きかったのです。そして、今も、しっかり続いています。

 

その間に、私は必死で本を書きました。本が出たことで、私が講演する機会は増えました。さらに、『テレジン もう蝶々はいない』という歌と朗読のコンサートもでき、それも各地で上演が続くことになりました。

(仕方なく?)展覧会やコンサートの度に、《テレジンを語りつぐ会》という名前で、友人を中心に協力してくださる方たちに集まっていただきました。

3年前には、91年から使ってきたパネルの汚れや傷みが大きくなってきたこと、学校や市民団体の小規模な展示を望む声が増えてきたことを考え、《会》として、パネル修復のためのカンパを求めるコンサートを開き、DVDと絵葉書を作って買っていただき、12枚セット、20枚セット、新たに二種類のパネルを作成しました。

 

その段階で、《語りつぐ会》をきちんとした組織にすべき、会則を作って、会費を集めるべきという意見もありました。

それをせずに来てしまったのは、一つには、私のわがままでした。いつまで続けられるか分からない、はじめのころのような行動力も体力もないという、いわば自信のなさでした。そして、もう一つは、展覧会も講演会も、コンサートもすべて、各地で単発に計画され、実行されているもので、《会》としての主催ではなくなっているということでした。《会》がすべてを掌握し、責任を持つことはできなくなっています。

それでも、ここまで続いてきたことは本当に嬉しく、素晴らしいと思っています。だから、各地で《語りつぐ会》を名乗ってやっていただければ、それで良いのかとも考えていました。

 

 

……でも、その一方で、日本で初めての展覧会開催に至った経緯、後援や協力をして下さった多くの組織や企業や個人の存在、予想をはるかに超す反響(新聞・雑誌・テレビ・ラジオ、メディアに取り上げられたことは数知れないほどでした)などについては、まったく知らない人たちが、主催するようになっている現状について、考えると不安になりました。

世代交代は当然のことですが、何も知らないまま受け継がれて行ってもいいのだろうかという心配が出てきたのです。

 

どうして、あの時代に、日本で『テレジン収容所の幼い画家たち展』が開けたのか。多くの人が、開かねばならないと思って賛同してくれたのか、そして、それまで頑なに沈黙を守っていた生き残りの人たちが、どうして口を開いてくれたのか。

どうして、組織も力も何もない私の投げた小さな石が、あれほど大きく波紋を広げて行ったのか。「テレジンって何?」と言いながら、あんなに大勢の人が会場に詰めかけてくれたのか、絵の前に立ちつくし、涙をぬぐい、アンケート用紙に長い文章を綴ってくれたのか。

 

……それは、チェルノブイリのあの事故からはじまり、ソ連が崩壊し、東欧の国々に改革が続き、ベルリンの壁が壊され、東西ドイツが統一し、イラクがクゥエートに侵攻し、湾岸戦争が起こり、さらに、EUが発足し、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争が激化するという、あの時代だったからだと思うのです。

 

「今だったら、あそこまでできなかったかも知れない」とよく言われます。

確かに、あの時代――日本ではバブル全盛、そして崩壊、いじめや、中・高校生の自殺や、家庭内暴力が増えた時代、世界中が大きく揺れ、支配体制が崩れ、自由に外国へ行くこともでき、ものを言うことができるようになり、独裁の理不尽に抵抗し、自由を求めて命を失った人たちのことを語れるようになった、あの時代。

それを語っておかなければならないという気がしてきたのでした。

きちんと書いておきたいと思いました。

 

残念ながら、出版の状況はとても厳しく、すぐに本になるかどうかはわからないけれど、ホームページという素晴らしい手段があるじゃないか。まだ書き足りないこと、もっと話しておきたいこと、それをとりあえず、ここで書いておこうと考えて始めたのが『テレジン再見』でした。

本当は思い出したくもないつらい記憶、生き残りの人たちは、それを私に語ってくれました。「生き残った人間は話すのが義務だから」と。それを聞いたのだから、書き残すことが私の義務、伝えることが私の義務。そう思ってはじめた連載でした。

 

 

3月、都内の公共図書館で、『アンネの日記』関連本が大量に破かれるという事件がありました。このことについては、このホームページでも書きました。その後、犯人らしい人は逮捕されましたが、なぜ、何の目的でやったのか……何一つ解明されていません。警察発表がないために、さまざまな憶測をまじえた裏情報が流れているという話も聞きました。結局、不愉快だった、あのときの気分のまま、それが今も続いています。

 

あの事件が大きく報じられていたある日、もと出版社勤務で、今は出版社を経営している古い友人と会いました。

久しぶりにお酒を飲みながら、アンネ関連本の話題になりました。本を破くという行為、毎日のように起こっている理由もない殺人や暴力事件と同じよね、何か、今の日本の社会がおかしくなっている気がする、特定秘密保護法案の強行採決なんて、おかしいじゃない? なんで今の若者は、こういうことに怒らないのだろう……そうそう、オリンピックより前に、東日本の復興に力入れなきゃ、なんて話は次々と盛り上がりました。本を破くというのは、ナチスの焚書と同じ……。

 

「命をかけて書いた本を破かれたら、もっと怒れよ!」

「私は怒っていますよ、悲しんでいますよ。でも、本当は、みんなが怒るべきでしょう……誰の本とかじゃなく、そういう行為に対して怒らなくちゃ」

という話の挙句に、やっぱり今、もう一度あの時代――アンネが生き、テレジンの子どもたちが生き、そして共に殺された、あの時代を書かねば、出版しなければ、という結論になったのです。

必死で書きました。今までの本を書いた後、今だからまた見えてきたこと、子供向けの本には入れられなかったこと、書きました。

 

……ということで、連載を書けなかったのだという言い訳です。でも、連載をしていたから書きたくなっていたのが事実です。11月には出版の予定です。楽しみに待っていてください。

 

2014年6月6日  野村 路子