「アウシュヴィッツに生きたM.コシチェルニャック展」閉幕によせて

「アウシュヴィッツに生きたM.コシチェルニャック展」が終わって、もうすぐ一か月になります。

私の思いに応えて、展覧会開催を実現してくださった駐日ポーランド大使館、ポーランド広報文化センター、そして、母校の早稲田大学に対しても、見に来てくださったたくさんの方たちに対しても。もっと早くお礼を申し上げなければいけないのに、報告すら遅くなってしまったことをお詫びします。

展覧会が開かれることになった経緯や、私自身が20年間守り続けてきた絵については、以前にも書き、また今回いくつもの新聞が取材して掲載してくれていますので、それを読んでいただきたいと思います。


展覧会開場の様子
展覧会開場の様子(写真をクリックすると拡大でご覧いただけます/以下同様)

展覧会が始まる直前まで、正直なところ不安でした。これは、1991年、日本で初めて「テレジン収容所の幼い画家たち展」を開催した時と全く同じ気持ちでした。あの時も、一年間ずっと「あのプラハの街で出会ったテレジンの子どもたちのことを日本の多くの人たちに知ってほしい。収容所と言う地獄の中で、あんなに美しい生き生きした絵を描いた子どもたちを見てほしい」と心の底から願い、ことあるごとに語り続け、多くの方の協力を得て実現したことを喜ぶべきなのに、埼玉県熊谷市の八木橋デパートの会場への搬入が終わってもまだ、私は不安でした。

学生時代からの友人の中には「あなたの思い入れが本気なのも、強いのも分かるけど、今の日本で、果たしてどれだけの人が、子どもの遺した絵に関心を持つかな」と言った人がいました。

冷静に考えれば、その通りなのだと思っていました。だから、開幕しても、どれだけの人が来てくれるのか・・・ほとんど反響もなく終わるのかもしれないという不安があったのです。


今回も同じでした。ミエチスワフ・コシチェルニャックという画家の名前を知っている日本人は殆どいません、50号、100号の、見る人を圧倒するような油彩画ではありません。これまで20年の間に、銀座教会、世田谷美術館、横須賀文化センター、小山市、銀座文化サロン、広島県甲奴町(当時)のジミー・カーター・シビックセンター、原爆の図・丸木美術館・・・20カ所くらいで展覧会を開催してきました。見に来てくださった人の中には、「これほど心に残る絵を見たことはない」「忘れられない体験でした」「見てよかった、見せてくれてありがとう」などという感動的な言葉を残してくださったものの、実際の入館者数は決して多くはなかったのですから。


でも、私の不安は裏切られました。あのテレジンの時と同じように。

コシチェルニャック展の初日は、早稲田大学の卒業式でした。大隈講堂の前は華やかに着飾った学生たちで賑わっていました。昔(私の在学中)の文学部校舎の脇の桜が満開でした。でも、大隈タワー10階の展覧会場の空気はひんやりとしていました。

その日の東京新聞に大きな記事が載ったせいなのか、あちらこちらにポスターやチラシを置いていただいたからなのか、一人、また一人と絶え間なく入ってくる人はいました。


私は、テレジンの展覧会の初日のことを思い出していました。

小さな男の子との出会いでした。受付に座っていた私に「おばちゃん、おばちゃん」と言ってきた子。「ぼくのおやつ上げる」と言うので、「ありがとう」と手を出すと「ううん」と首を振って走って行ってしまう・・・そんなことが二度、三度繰り返され、少々面倒くさくなった私は「おやつ、誰にあげるの?」と聞きました。すると、その子は「あの子にあげる」と、会場の中を指さすので、友だちでも一緒に来ているのかと思い、私は、その子とともに会場に入りました。

「この子にあげる」・・・男の子が私を連れて行ったのは一枚の絵の前でした。それは、《幸せの国 1コルナ》と書かれた絵でした。1コルナ入場料を払ったら入れるのか、そこにはベンチに座る女の子がいて、小鳥や蝶々、ブタやハリネズミ、そして、アイスクリームや、ココア・ミルク・お砂糖などと書かれたカップがあり、大きな篭を持った天使が飛んでいるのです。子どもならみんな一度は描くはずの、自分の大好きなものをみんな描いたのだろう絵・・・ただ、その小鳥やブタやハリネズミにフォークが刺さっているのです。きっとお腹がすいて、ミルクが飲みたい、アイスクリームが食べたいと思っているうちに、すべてにフォークを書いてしまったのでしょう。

私自身も、解説を書きながら涙が出そうになった絵の一枚でした。慌てて近寄ってきた母親は、「きっとお腹がすいて・・・」と書いた私の文章を読んであげたのだと言いました。

食べるものがないなんて生活を想像もできないだろう幼い男の子が、絵の中の女の子が空腹なのだと聞いて、自分のおやつを上げようと思った・・・あのとき、私は、この子一人のためにでも展覧会を開いてよかったのだ、明日から誰も来なくても、私の思いはこの子に伝わったことで満足しよう――と本気で思ったのでした。


着物に袴、卒業証書を手にした女子学生が入ってきました。

ゆっくりと会場内を回っています。解説文を熱心に読んでいました。一回りして出てきた彼女に、私は声をかけました。卒業式に出た帰りだというのです。

「今日見なかったら、もう機会がないと思って、友だちの誘いを断ってきました」と彼女は言いました。そして、「せっかくの卒業式なのに・・・」と礼を言った私に、「私の方こそありがとうございます。四年間の最後に素晴らしい体験をしました。忘れません」と言って頭を下げて出て行きました。

――この一人のためだけにでも、やってよかった、と思う私の前にまた素晴らしい若者が現れました。大きなリュックと鞄を持って入ってきた彼は、その荷物を受付の横に置いて会場に入って行きました。長い時間でした。

 見終わって戻ってきた彼とも話をしました。その日の朝、ポーランドから帰国、成田から真直ぐ会場へ来てくれたのだとのこと。「アウシュヴィッツを訪ねてきました。人間として見なければいけないものを見た、という思いで帰ってきました。それを、これからどう伝えようかと考えていたので、この展覧会を見られてよかったです」と話してくれました。

これから北海道の家に帰るのだそうです。旅先で、メールで展覧会のことを知り、家に帰る前に寄ってくれたのです。「卒業したら教師になるつもりです。子どもたちに、戦争や独裁、差別の愚かさ、悲惨さを伝えて行きたいと思います」と語って、また大きな荷物を背負って出て行きました。

こんな素晴らしい若者に会えた・・・それだけで、この展覧会を開いてよかったと思いました。


その後も毎日のように(私自身も毎日は会場に行かれなかったのですが)、素晴らしい出会いがありました。アウシュヴィッツを訪ねた話をしながら涙を流した女性、自身の戦争体験を話してくれた老人、「学校でポスターを見て」きたという早大本庄高校生のグループ、「今日で三回目です」と言った人、そして・・・。

「よく大切に保管してくれましたね」と私の腕を何度も撫でてくださった人、「ありがとうございます」と繰り返し礼を言った人「あなたがいなかったら、私たちはこんな絵があることも知らなかったのですよ」と。

嬉しい出会いでした。


正直に言って、ここまで、この絵を維持してくるのは、本当に大変でした。財力のない個人が絵を持つことがいかに大変なのか、初めて知ったことでした。

これがなかったら、(遊びにあるのは別にして)始終誘ってくれるディタ・クラウスに会いにイスラエルへ行けたでしょう、95歳を過ぎて車いす生活だというBeit Theresienstadt のアリサさんのもとを訪れることもできたでしょう。まだ会えないでいた《テレジンの子どもたち》、ヘルガ・キンスカに会いにプラハへ行くこともできたでしょう・・・コンサート『テレジン もう蝶々はいない』を大きなホールで上演することも。そして、出版事情の厳しい中、折角書いたポーランドやチェコの旅行記を自費出版することもできたはずなのです。私なんかが手に入れてはいけなかったのだと後悔したこともあったのです。

――でも、展覧会をやって、やっぱり必死で維持してきてよかったのだとしみじみ思いました。

誰かがやらなければならないことだったのです。

あの当時ポーランドでは、コシチェルニャックさんが亡くなった後、ウルシュラさんが一人で維持していくことは難しかったのでしょう。「もしかしたら、散逸してしまったかも知れないですよね」と言ってくださった人もいましたが、本当にそうだと思います。


開催日祝賀会開場の様子
開催日祝賀会開場の様子(写真をクリックすると拡大でご覧いただけます)

今回の展覧会は、多くの人の心に残ったと思います。

「地獄」と呼ばれる、人が人を殺すために作った絶滅収容所。その中で、他人のために命を捨てたコルベ神父の存在。彼からの遺言ともいうべき「あなたには、生きて事実を伝えなければならなう役目がある」という言葉を胸に刻んで、苦しくても事実を描き続けた画家の、その一方で、収容所の中にいても描くことができた美しい絵。

そして、同時開催のヤン・コムスキーの描いたアウシュヴィッツの24時間。写真よりも緻密に事実が描かれています。そこからは、暴力や不条理に対する激しい怒りと、その反対の、仲間へのやさしさ、虐げられる人々によりそう思いなどが描かれた28枚の絵に長い時間見入る人も多くいました。


祝賀会でご挨拶する野村路子
祝賀会でご挨拶する野村路子(写真をクリックすると拡大でご覧いただけます)

コシチェルニャックの絵は、これから、ポーランドへ帰ります。彼の故国。彼の愛する妻(ウルシュラ)のいた国へ。

この絵を入手したころ、まだお元気だったウルシュラさんから、コシチェルニャックからもらった手紙の一通をいただきました。ラブレターです。「最愛の」「愛する」と言う言葉が何度も何度も出てくるような熱烈な・・・。

戦争が終わり、解放されて郷里へ戻ってきた彼と彼女の間にどういう経緯があったかは知りません。でも、手紙には、彼女に対する愛情の深さ、その愛情が真実のものであることを天国のコルベ神父に誓うという言葉が書かれています。

愛する相手ももう亡くなりました。今、絵が帰っても、もう彼女は見ることができません。でも、あなたが私に託した絵は、今日まで20年間、大切に守ってきましたよ、お別れの展覧会で、多くの日本の人に感銘を与えましたよ、と伝えたいと思います。

 

 

2015年5月20日

テレジンを語りつぐ会・代表 野村路子


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コシチェルニャック展 開幕式・祝賀会ご報告

 

コムスキーの絵のパネルは、野村が保管します。テレジンの子どもたちの絵と同様、多くの方に見ていただきたいと思っています。パネルにして9枚(絵が28点)+コムスキー紹介1枚です。開催希望の方はご連絡をお待ちします。