2018年6月6日~12日:熊谷市八木橋デパート『テレジン収容所の幼い画家たち展』開催

少し先の予告です! 

6月6日~12日、熊谷市八木橋デパートで『テレジン収容所の幼い画家たち展』の開催が決まりました。

1991年4月15日、日本で初めての展覧会が開かれた熊谷の八木橋デパートに、27年ぶりに、テレジンの子どもたちが帰ってきます。

 

あの日、私は、オープニングのご挨拶で、「みなさん、子どもたちの名前を呼んであげてください」と言いました。「テレジン収容所で、親から離され、いつもお腹がぺこぺこで、寒い夜にも毛布もふとんもない三段ベッドで寝る生活……そんななかで子どもたちは一生懸命に絵を描きました。お父さんやお母さんに見せたかったはずです、上手に描けたねと褒めて欲しかったはずです。でも、見てもらうこともなく、アウシュヴィッツのガス室に送られて殺されてしまった子どもたちが描いた絵なのです。どれか一枚でもいいですから、描いた子どもの名前を呼び、その名前を憶えてあげてください」と。

 

その2年前に、偶然にプラハの街の小さな博物館(今その絵が展示されているピンカス・シナゴーグではなく<Jewish Museum>というけれど、ユダヤ人墓地出口の横の小さな建物でした)で出会った子どもたちの絵。それが、テレジンという収容所に送られていたユダヤ人の子どもたちが描いた絵であり、その子どもたちのほとんどすべてがアウシュヴィッツのガス室で、幼い命を奪われていたことを知りました。それから1年、どうしても、あの絵が忘れられない、心から離れない……日本の子どもたちに見せたい、こんなことがあったのだという事実を多くの人に知ってほしいという気持ちが変わらなかったのです。1年たっても変わらないのだから、私の思いは本物なのだと自分で判断し、たった一人で展覧会を開くことを決め、在日チェコスロバキア(当時)大使館に出向いたのが、1990年2月でした。

 

会って話しを聞いてくださったレボラ書記官が、すぐに国の方に問い合わせ、幸いにも、「遠い日本の一女性が、あの絵に心を止めてくれたことが嬉しい」と、展覧会開催快諾して下さいました。すぐにプラが辺飛んで行ったのも、今は懐かしい思い出です。そして、見せていただいた絵は、ますます強く私の心をとらえました。博物館の展示では気づかなかったけれど、描かれた紙のほとんどが画用紙ではなく、ドイツ軍の書類や、包装紙、封筒を切り開いたもの、小さく、まわりがギザギザになっているような紙や、シミのある紙、皺を伸ばしたことがわかるようなものばかり、コンな紙に、汚く狭い部屋の中で、あんな美しく生き生きした絵を描いていたなんて――。

 

すでに描かれてから40年以上の年月が過ぎていました。もともと拾い集めたような粗末な紙は、傷みがひどく、ほとんど動かせない状態であることも聞かされました。そして、私が日本での展示を希望する150点の絵を撮影して、それを使ってレプリカを作成すること、その日本での永久使用の許可をいただき、日本で初めて、世界でも、プラハの博物館と、イスラエルの<ヤド・ヴァシェム(ホロコースト資料館)の展示を除けば、イタリアに次いで二番目の『テレジン収容所の幼い画家たち展』開催が決まったのです。

その時のチラシです。同じデザインのポスターもありました。裏面を見ると分かるように全国23カ所の巡回展でした。

 

当時の資料を少しお目にかけます。今、世界中(?)がオリンピックで沸き立っているのかもしれませんが、あの、展覧会始めたころよりも確実な平和や幸せの時代だと言えるでしょうか。私がはじめて、あの絵に出会った時はまだ米ソ対立の時代でした――その何か月か後に、東欧の国々の改革が進んだのですが、今また、それらの国でもさまざまな問題が起こっています。日本では……? あの時以上に、「戦争をしてはいけない」と言わねばならない気がします。「子どもたちの笑顔を奪ってはいけない」「子どもたちの生きる力を信じよう」とも。だからこそ、今また、この展覧会が開かれることに大きな意味があると信じています。

 

もう一度やろうと決めてくださった八木橋デパートさんに感謝すると同時に、「もう一度!」という方が続いてくれたらと、心から願っています。

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