テレジン通信:2013年8月

テレジンを語りつぐ会・石巻訪問記

訪問の様子が山形新聞で報道されました
訪問の様子が山形新聞で報道されました(クリックすると拡大でご覧いただけます)

7月27日、石巻を訪ねました。一昨年、訪ねたのは7月22日、昨年は私の怪我で行かれなかったので、2年ぶりの訪問です。
その間に、どれほど復興しているのか……期待すべきかと思いながら、不安や疑問がありました。新聞やテレビで伝えられるのは、商店街が活気を取り戻したとか、漁獲高も多くなり水産業の見通しは明るいとかいうニュースか、その反面で、まだ仮設住宅暮らしが続き、不自由な生活を強いられている人が多い、あるいは失われたものの大きさから、まだ立ち上がることができず、学校や幼稚園の責任問題が法律問題に発展しているというニュース。加えて、復興支援金が、被災地から遠く離れたところで、訳の分からない目的で使われているというニュースまで伝わって、今、本当に私たちが見なければいけない、知らなければいけないのは何なのか、分からなくなりかけていたのです。
しかも、私の中では、「東日本被災地」と安易に口にしているけれど、実際には、地震による家屋の倒壊や鉄道・道路の被害、津波により何もかも根こそぎ奪われてしまった地域の被害、さらに、原発の事故により住むところを追われることになってしまった人々の被害……少なくとも、その三つは大きく分けて考えなければいけないのではないかという思いがずっとありました。

 

訪問の様子が石巻かほくに掲載されました
訪問の様子が石巻かほくに掲載されました(クリックすると拡大でご覧いただけます)

前回の荻浜小学校訪問の窓口になってくださった八巻真喜子さんからの情報では、あの時は21人いた生徒が、今、3人になってしまったということでした。
八巻さんのご主人が住職を務める洞仙寺は、地震で本堂は倒壊、広い墓地も崩れ、多くのものが津波に流されていました。

それでも、地元・桃浦の方たちは、心のよりどころとしてお寺へ集まってくる……

「皆さんの集まれる場所というのが、寺の役割だったのですね」

一昨年、訪れたときは建物がなかった洞仙寺は、地域の人たちのために仮本堂を作らねばと動き始め、ついに出来上がっているというお話でした。

 

切り絵作家・冗快さんが描いた『地蔵菩薩』『虚空蔵菩薩』の絵
切り絵作家・冗快さんが描いた『地蔵菩薩』『虚空蔵菩薩』の絵

そして、皆さんが集まる洞仙寺に

1/テレジンの仲間・中村ヨシミツさんのご好意で、京都の仏師・今村宗圓氏が「東日本被災地の復興を願って」彫った『お地蔵様』

2/埼玉県三郷市在住の切り絵作家・冗快さんが描いた『地蔵菩薩』『虚空蔵菩薩』の絵

3/前回からずっと協力してくださっている、仙台在住の画家・前田優光さんが、新聞連載にために三陸を回っていたときに描いた、桃浦ゆかりの支倉常長のサンファン号の絵

を贈呈することにしました。どれも、ここに集まる方たちの心をいやすものとなるでしょう。

 

■洞仙寺訪問の様子をご紹介します

※画像をクリックしてご覧ください

荻浜小の3人の生徒さんに

1/画用紙とクレヨン
2/友人たちから寄付していただいた本を贈り、「絵を描くことが生きる力になる」という、テレジンの子どもたちとフリードル・ディッカーの話を伝え、絵を描いていただき、さらに仙台在住のシャンソン歌手ムッシュ・ケンこと須田賢一さんにもお願いして、歌を歌っていただくことにしました。

 

そして、素晴らしいニュースを伝えることができるのです。
一昨年、荻浜小学校の生徒たちが描いた絵と、私たちの訪問の場面を撮った映像は、ディスクになって、国際宇宙ステーションに打ち上げられました。あの日、宇宙フォーラムの山中勉さんから、空を見上げれば、星よりも明るく見える宇宙ステーションの話を聞きました。
あの時、(ちょうどテレジンの子どもたちの絵の展覧会を見、あの子たちのことを知ってくれた)北九州・福岡の小学生から、荻浜小へのエールのカードとともに、たくさんの本が届けられました。
今年は、その本一冊ずつに、エールのカードをつけて撮影した写真、126枚が、一昨年の絵と一緒に宇宙へ届けられることが決まったのです。
8月4日、「こうのとり」が「きぼう」へ運びます。

 

■北九州・福岡の小学生から荻浜小学校の子どもたちに贈られたエールのカードを一部ご紹介します

※画像をクリックしてご覧ください

同行は、友人の佐藤恵子さん、仙台で前田さん、須田さんと会い、車で石巻へ。
高速道路は、一部拡幅工事をしている以外、前の時のような路肩の崩落や、ひび割れ、青いシートをかぶせた場所もなく、土曜日の朝のせいか車の数も多く、まったく普通の日常生活があるように思えます。石巻市内へ入っても、前の時のような被害のあとは見られません。瓦が落ちたり、壁が崩れたり、傾いている家があったりした、2年前の光景から見れば、確かに復興は進んでいるように思えます。
でも、その光景は、北上川に近づくにつれ大きく変わります。建物の表面の壁が黒く汚れているのは、あの日、そこまで水が押し寄せた痕です。海からはかなり離れた場所です。津波は、北上川を遡り、町にあふれたのです。

 

日和山から街の風景を見る
日和山から街の風景を見る

前回に続いて協力してくださっている首藤直彦さんご夫妻と会うのは日和山の頂上にある神社の前。途中から降りだした雨がかなり強くなっていました。
一昨年、ここから見た街の風景は、本当に悲しいものでした。
私は、1978年に、何度も何度もこの街を訪ねていました。春の桜とつつじが美しい日和山、夏は木陰と海からの風で涼しかったものです。そこから眺める街は活気があり、北上川の流れは青く、反対側へまわれば海が見えました。
それが、一昨年は全く違う風景になっていたのでした。
色がないのです。灰褐色の広がり…ところどころに骨組みだけが残った建物があるだけで、北上川の中州も、橋の向こうの街も、そして、海につづく側の街にも、7月なのに、まったく緑の色が見えなかったのです。

 

現在の石巻
現在の石巻

今年は、それが大きく変わっていました。骨組みだけ残る建物は同じでも、その周りに緑があるのです。あの灰褐色だった土地に草が生えているのです。
かつて、原爆が投下されたヒロシマは、「今後100年は草も生えないだろう」と言われるほどの廃墟になっていました。そこに、翌年の春、小さな草の芽が見えたとき、人々は、その命に歓喜したとのことでした。
テレジンやアウシュヴィッツ、ベルゲン・ベルゼン、トレブリンカなどの収容所跡を歩いている私には、特に、こうした場での命の証のような草の存在が胸を打つのかもしれません。
そう、ここにも草が生えている…それは、復興の進んでいない状況に苛立たしいものを感じていた私には、ほっと心を慰めてくれるものでした。

 

ようやく雨がやみ、桃浦へ向かって出発しました。
あの日、津波に襲われたのちに、激しい火に包まれた門脇中学校の焼け焦げた校舎は、シートで覆われていました。その校庭を利用する高校生への精神的影響を案じての策だそうです。
各地の学校や公共施設、あるいは陸地まで運ばれてきた船…さまざまなものが、残すのか、撤去するのか問題になっていると聞きます。部外者の私には言うべき言葉がありません、見るたびに失われた家族を思い出す、耐えられない、というのは事実でしょう。それを否定はできません。
でも、テレジンでもアウシュヴィッツでも、あの当時のまま残された場所に多くの―遺族もふくめて―人が訪ねてくるのです。東京では、あの戦災の痕を示すものはありません。プラハでは、爆撃を受けた旧市庁舎をそのまま残しています。私は行くたびに、日本人とヨーロッパの人々の考え方の違いなのかと考えていました。どちらがいいのか…答えは出ません。

 

地盤沈下が激しかった石巻は、雨でいたるところに大きな水たまりができ、迂回しなければならない場所もありました。水産会社のあった地域には、大きな建物がいくつもできていました。でも、漁港、魚市場はまだ完全に復旧できていません。
市の中心部、駅の周辺などの復興にくらべ、少し離れた地域は、まだまだ手つかずのまま、一階は骨組みを残すだけの民家は、どうにか二階で生活している様子が見られました。
整備された峠越えの道を通って牡鹿半島沿岸へ。海は凪いで、幸い雨もやみ、時折雲間からもれる日の光の下で美しく光っていました。美しい海です、かつて、私の心を魅了した青い海は、今も美しいのです…あれほど多くの人の命を奪い、家や学校や店や工場や船や車、すべてを破壊しつくし、使い慣れた茶碗や箸、教科書やノートや大好きなおもちゃ、赤ちゃんのミルクや紙おむつ、大切な家族の写真、先祖の遺品まで、あらゆるものを奪いつくした海。でも、今は、静かに美しく光りながら、静かに波が寄せては返しているのです。自然の脅威という言葉を、あらためてかみしめる思いでした。

 

洞仙寺の仮本堂
洞仙寺の仮本堂

そして、到着した洞仙寺、高台に仮本堂ができていました。十数人の方が集まっていました。
荻浜小学校の生徒は、3人になっていました、たった3人!です。一昨年、訪れたときは21人が、広い体育館の床に思い思い座って絵を描きました。集まって、歌を歌い、踊りました…その生徒たちは、次々と転校してしまったのです。
集落の家々は壊滅状態でした。ほとんどの人が家を失いました。避難所へ、その不自由さを逃れて内陸部の親類をたより、あるいは新しく住む家を求めて、去っていきました――去らざるを得なかったのです。
洞仙寺さんの本尊は、本堂の屋根に押しつぶされ、瓦礫の下から見つかったものの、両手がもげ、真っ黒に汚れていました。その本尊の前に、住職さんが、お贈りしたお地蔵様を置いてくださいました。

 

一昨年、画用紙いっぱいに大きく向日葵の花を描いた さくらちゃん、ラーメンのどんぶりを描いた子が二人いて、あの夜、寒くてお腹がすいて、ラーメンを食べたいって思ったのかしらと話していたのでしたが、それは仲良し双子の直子ちゃんと礼子ちゃんの絵でした。その3人が、荻浜小学校の全員です。
3人は、来春、卒業して万石浦中学へ進学します。そうしたら学校は、廃校? 

「いや、廃校ではなくて、休校というのです」と首藤さんが言います。「高台に集合住宅ができて、みんなが戻ってきたら、そして小さい子どもがいたら、学校はまた生き返るのですよ」
昨年、生徒数が9人になってしまったとき、当時の校長先生は「何とかして統廃合を免れたい」と言っていました。「学校は存続させたいのですよ。何年後かに、復興が進んでも、学校がなかったら、みんな戻ってきませんよ。学校は、この地域の大切な場所なんです」と。
あのときも、学校は、お寺は、地域にとって特別な場所なのだと教えられた思いだったのです。
テレジン収容所では、子どもたちの笑顔を取り戻すために、大人たちは命がけで学校を開きました。「子どもたちが一番喜ぶことをしよう」と考えた結果が学校だったのです。

 

被災地では、すでにいくつもの学校が統合され、あるいは廃校になりました。
首藤さんとお仲間たちは、そうした学校の校歌を残そうという活動をしています。オーケストラの演奏によるもの、合唱団の歌声によるものをCDにして残そうというのです。日響や読響、東響など一流のオーケストラが協力しているとのことです。
「忘れていませんよ」…そう言いたくて訪れた石巻でした。これからも忘れません。
首藤さんは「ご縁が大事」とおっしゃいました。小さなご縁です。でも、これからも大事にします。忘れずに見守り、応援して行きたいと思います。
小さな学校は、住民にとって、地域にとって、元通りの生活を取り戻すための大事な存在です。あの学校の校庭(あの日、大きな船が打ち上げられたという)に、大勢の子どもたちの歓声が響くようになる日を、あの、一昨年、一生懸命にクレヨンを握って絵を描いた生徒たちの妹や弟が、また、あの体育館に集まる日を、心から待ちたいと思います。
「希望を捨ててはいけないのよ」「また楽しい、いい日が来るのよ」…あの日の言葉に嘘はありません。待っています、希望をもって。

 

私が代表を務める「テレジンを語りつぐ会」は、その名の通り、テレジンの事実を語りつごうという小さな仲間の会です。
お金も、力も、組織もありません。でも、テレジンの事実を知っているからこそできる、しなければならない活動を続けて行こうと思っています。
石巻行きを前に、私は、皆さまにカンパの協力をお願いしました。
一昨年は、皆さまのカンパのおかげで、たくさんの画用紙やクレヨン、色鉛筆を買うことができました。でも、残念ながら、今年は反響が少なく、赤字続きの「テレジンを語りつぐ会」では、何もできない状況でした。
本当は、勝手に私がやっている活動、私が自分でお金を出してやるのが当然なのです、そう思っている方も多いのだろうと思います。
ただ、私がカンパを呼びかけるのは、皆さまにも忘れずにいてほしいからなのです。皆さまが忘れずにいてくれるということを、石巻の方たちに伝えたいからなのです。
それを分かっていただきたいと願います。

 

2013年8月18日 野村 路子

 

≪カンパのご協力について≫

[お問い合せ] teresien.japan@gmail.com 代表:野村路子

[お振込み先] みずほ銀行 大宮支店 普通口座 1840746 
        テレジンを語りつぐ会 代表 野村路子