野村路子の<テレジンとの出会い>

1989年2月、まだ社会主義国だったポーランド・チェコスロバキア・ハンガリーを旅した私はプラハの小さな博物館でテレジンの子どもたちの絵と出会いました。

 

先に訪れたアウシュヴィッツ収容所で犠牲者が遺した櫛や眼鏡、ブラシ、食器、衣類。それらを詰めて持って行ったであろうトランクやバスケットそして、犠牲者達から刈り取った髪の毛や、障害者が使っていた松葉杖や義手・義足・・・。  

何もかもが、おびただしい量で山のように積まれているのを見たときのショックは大きなものでした。(ショックという言葉はなんだか軽くて、使いたくないけれど、でもやっぱりショックを受けたとしか言いようがないのも事実です。)

私の胸の中には不条理なものに対する、どうしようもない怒りや悲しみの感情はわいてきたもののなにか奇妙な不満のような気持ちがありました。
遺品の山がすべて「多くの犠牲者の…」であって、そこで殺された人々が見えてこない。彼ら一人ひとりのいそれぞれ名前があり、顔があるはずなのに、それが全く見えなかったのです。

 

ひとまとめにガス室に押し込められて死んだのは事実だとしても、死んでしまってからも「多くの…」なかの一人でいてはいけないのではないか。
あの、髪の毛の山のうえに乗っていた三つ編みのお下げ。色あせたリボンがついたままの、あの髪は、どんな少女のものだったの?

あの、つぶれた靴、あれを履いていた人の名は?……
という思いが強く残っていました。

 

そんな思いのまま訪れたプラハのユダヤ博物館で見た子どもたちの絵。
それが、アウシュヴィッツへの中継地だったテレジン収容所で描かれたものだと知ったときその絵の下につけられた名札を、私は、もう一度、一枚いちまい見てあるきました。

 

ルース・ハイノヴァー 1934年2月19日生まれ 1944年10月23日アウシュヴィッツへ
マリカ・フリードマノーヴァー 1932年8月6日生まれ 1944年10月4日アウシュヴィッツへ

 

それぞれの絵に名前があるのです。
そして、子どもたちに絵を教えたフリードル・ディッカー・ブランデイズが、子どもたちにいつも言っていたという言葉を知りました。
「絵を描いたら、ちゃんと名前を書きましょうね。あなたたちにはみんな名前があるのよ。ドイツ兵から番号で呼ばれ、“おまえらは人間以下のブタやウジムシだから、名前はないのだ”って言われているけれど、それは違うわ。お父さんやお母さんが、あなたたちを愛してつけてくれた名前があるのよ」
子どもたちの運命をすべて予期していたフリードルの言葉だったのでしょうか。

 

私は、プラハの小さな博物館の中で不思議なほどはっきりと考えたのでした。
この、収容所の中で描かれたとは思えないような明るく生き生きした絵を日本のたくさんのこどもたちに見せたい!


過酷な日々を一生懸命に生きた子どもたちの存在を、日本のたくさんの人に知ってほしいと思ったのです。同時に、私は、一本の鋭い刃を胸に突きつけられたような気がしました。
「あなた、そこにいたら何が出来た?」
私は、フリードルのように、子どもたちの笑顔をとり戻すために命がけで働くことができただろうか。労働に疲れた夜は、自分が休むことを考えてしまったのではないだろうか。「私もやりました」と自信をもって言えない悔しさ。


でも、私にもできることがある…そう思ったとき、私は、生まれてはじめての大きな冒険ともいえる仕事を立ち上げたのです。『テレジン収容所の幼い画家たち展』です。

テレジン収容所にいた1万5000人の子どもたち。
アンネ・フランクと同じように、楽しい子ども次代を過ごしていたのに、ただユダヤ人に生まれたという、それだけの理由で、過酷な生活を強いられ、未来に抱いていた夢や希望、たくさんの才能や可能性をすべて断ち切られ、命を奪われた子どもたちのことを、日本中の多くの人に知ってもらいたいという、その思いだけでした。

 

フリードルの存在は、収容所の中にあって、明るく光る灯火だったような気がします。
そして、彼女に励まされて、明日への希望をつなぎ、眼を輝かせて絵を描くようになった子どもたちの生きる力は、今を生きる私たちにとって、やはり明るく光る灯火なのだと。

 

1990年、在日チェコ大使館の協力を得て、プラハのユダヤ博物館に交渉し、日本で『テレジン収容所の幼い画家たち展』を開くことになったのです。


友人を誘い<アウシュヴィッツに消えた子らの遺作展を成功させる会>を発足させ、新聞紙上でよびかけました。
「あの『アンネの日記』は、父親オットー・フランクとその友人の、勇気と真実を伝えねばという思いから出版され、世界中の人々の胸を打ったのです。今、1万5000人のアンネ・フランクのために、あなたも、第2、第3のオットーになってください」


幸いにも新聞記事の影響は大きく、多くの開催申し込みがあって、1991年、日本全国23ヶ所で巡回展の開催をかわきりに、以降、多くの方々のご支援を受け、各地で展覧会や講演会などを開催させていただいております。